A-dialogue ’05  <建築デザイン思考>


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12/20 対処療法

最新の医療現場がどうなのかは良くわからないが、現代の医療が対処療法がほとんどなのは良くわかる。
体の調子が悪いときに病院に行っても、適当な薬をもらうか、直接体に注入されておしまいだ。
某大学の教授が「透析患者のほとんどは病院にいってからさらに悪化していく」と明言していた。
それは、現代の医療が無能なのではなく、対処療法を極めるばかりで根本的な原因を理解出来ないことだと考える。

建築に置き換えてみると、工務店やハウスメーカーは対処療法的だと思う。
地方の住宅はほとんどが同じプランではないかと思える位、似ている。
そこに仕上を変えているだけで、基本的に同じだとすれば対処療法でしかない。
ハウスメーカーの新商品と呼ばれるものは、まさにその典型である。
型式認定という認定を取っているので構造は基本的に変えられない。
仕上材にしても、基本的な基材を変えるのはコストがかかるので出来ないから、表面の模様を変えているだけだ。
建築家であれば、対処療法では解決出来ない問題を解く事を考える。
根本をたたき直す。それは、コンセプトをブラッシュアップする事に他ならない。
都心の狭小住宅が魅力的に見えるのは、その狭さがテーマとしてブラッシュアップされるほど
考え抜かれているからだ。
都心に情報があるから、東京の事務所の作品が優れている訳ではない。
地方は条件がいい分、ブラッシュアップを必要とせずに住宅を建てる事が圧倒的に多い。
ハウスメーカーが地方に強いのも当然。

人間は生命の危機に瀕した時の防御機能をたくさん持っているが、そういうものにさらされない状況が長く続くと今度は機能自体が退化する。
感覚やセンスも退化するのだろう。
個人として膨大な資金をつぎ込むのだから、それに見合う思考があるはずだ。

考え方を柔軟にすることは、簡単なようで非常に高度な技術を要する。
それは、全てを満たすものはないからだ。
つまり、何かを得るためには犠牲をいとわないという気持ちと勇気が必要だ。
それを持つクライアントと試行錯誤する建築家がコラボレーションする事で初めて住宅が建築として昇華する。
だからこそスペシャルな住宅を手に入れる事が出来る。

だが、そういうスペシャルさは万人に必要ではないのも現実。



12/07 form

かたちと機能は密接な関係だが、美しいかたちは機能を抜きにしても美しかったりする。
しかし、単に美しいだけでは彫刻やオブジェと変わらないし、建築である以上は機能を要求されるのも当然。
かといって機能をトレースして美しいものが出来るのかと言えばそうでもない。
「形態は機能に従う」と言ったのは、L.H.サリヴァンですが、現代において特にバーチャルな世界においては既に崩壊しつつあります。
形態が機能に従っていないものの典型としてコンピュータの世界がありますが、逆に考えると形態が機能に従わなくなったとき、実体である人間の体からも離れていく事になります。
数年前に仮想空間がもてはやされたとき、アイディアコンペでしきりにバーチャルな提案を要求するものがありましたが、それで何が分かったかというと、人間の体から離れたバーチャルはバーチャルでしかなくそれ以上でもそれ以下でもない。
そこから発展する建築を考えるのは、思想として可能だが建築として何が新しいのか。
確かにインターネットの普及で実体を等価にする事が容易になったのは事実である。
しかし、実体をどう等価に扱おうとしても、交換不可な現実は変えられない。
だからこそ魅力のあるテーマでもあり、こぞって細分化と等価が浸透していく。
建築を解体し、細分化して等価に再構築する。
この行間にどれだけのくさびを打込めるかが勝負と考えるか建築の解体をやめるか。
道は険しい・・・。

12/03 デザイン

建築デザインについて書こうと思っていても、デザインの話になかなかならないのは気のせい・・・。
それはさておき建築が生まれるプロセスというのは、じつに複雑で
さまざまな政治的?な世界があります。
デザインだけで創られる訳ではないのは常識的に分かりますが、構造だけで創られる訳でもなく
トータルなバランスも要求されると思います。
しかし、住宅を創る場合は多くの場合、資産として考えるという見方が大多数ではないでしょうか。
金融機関で担保を設定しているから当然でしょうが、実際建築についている担保は価値があるのかは
曖昧にされているのが日本の現状でしょう。
売られるときには土地の評価しか考慮されません。
しかし土地は土地のままでは何の価値もないと思いませんか?
利用されてこその土地でしょうし、古くは神様のものと信じられていました。
土地というのは、土地そのものが資産ではなく割り当てられたスペースが資産であって、本来抽象的な空間に価値を与えているようなものだと思います。
だからこそ、そこに創られるモノに価値が出るのであって、スペースに価値がある訳ではないのではないでしょうか。
そう言う所からしても、建築は実体が大きいだけにさまざまな制度としがらみにがんじがらめであり
それをデザインだけで突破するのは並大抵ではないのですが、建築を創るものとしての最後の武器はデザインしかないと思っております。ただし、ここでいうデザインは「かたち」の事ではないです、念のため。


11/30 富広問題

富弘美術館で村長と設計者らが対立、空調トラブルを巡り問題が表面化

この問題は、明らかに村長側がおかしいと思う。
私には村長の独りよがりにしか見えないし、事実今年の夏に来館した時は
あまりの冷房の効き過ぎにクレームの投書をしたぐらいだ。
あまりに安易に追加工事をしているようにしか見えない。
建築は商品ではない。公共建築では尚の事だと思うが、この村長は村が商品を買ったと勘違いしているのではないか。
外構計画があまりにお粗末だったのも、見ていたときに気になった。
カフェは景色を一望できるように設計しているはずなのに邪魔な木が沢山あって目障りだった。

このような権力の行使は本当に見苦しいものだ。
何のための設計なのか、コンペなのか。
ハコものをいらないと言ったのは住民のはずなのに、これでは旧態依然のハコものに逆戻りだと思う。

建築における民主化はことごとく失敗している、という事を隈さんが著書で語っていた。
そこでの民主化の定義と少し異なるが、住民参加型というのは建築を建設するための民主化と言えるだろう。
邑楽町の新庁舎も民主化に失敗している。
民主化の実現は、その民=国民の品位を高めなければならないのだろうか。



11/28 マンション問題


何だかどんどん問題の影響が広がってますが、どうなるのでしょうか。
しかし、戸建ての欠陥住宅が以前から問題視されていて、その多くは建売だった事を考えると
マンションは建売の集合体であり、そこで欠陥をつくってでも売る業者がいてもおかしくはないと思えてくる。
設計事務所はディベロッパーしか見えていないし、ディベロッパーは売れる商品が作れれば良いだけであるから、集合住宅としての社会的な役割や意義などはこれっぽっちも考えていない。
欠陥があろうがなかろうが、単なる建売の集合体を作っていたにすぎない。
かつての建築家は集合する住宅がユートピアを実現するかのごとく夢想していた時代があった。
しかし、それが実現できる世の中に変化した時、既に建築家の姿はなく、資本主義に歪められたエコノミストによる夢のない建築が氾濫することになった。
日本におけるマンションは、そのボリューム故に重要なストックにならざるを得ない。
そんな重要な建築が、タケノコのようにボコボコ建てられて良いはずがない。
作った方も重罪だが、買う方の問題もあるのではないか。
安ければ良いとか、広ければ良いというような理由だけで売り上げが伸びること自体に問題がある。
実際にヒューザーの物件を案内された購入希望者で、別な物件を購入した人は、ヒューザーの対応や耐震性に対する不自然さに気がついて購入を避けたらしい。
素人でも、あまりにおかしいものは分かるものだ。

JRの事故の問題も元を正せば、コストダウンによる過密なタイムスケジュールが原因ではないか。
マンションは今の所、犠牲者は1人だけだが、地震が来たらどうなるか分からない。

そう言う意味で、社会的な背景が影響している事件だし、建築というものの重要性と創り方を
考えるきっかけになって欲しいと思う。
安易に建てられた建築は利用する事も解体する事も出来ない厄介なものだ。
解体は環境破壊の元凶だし、欠陥品を利用したいとは思わないだろう。
建築を創る事は、良いモノを創れば非常にハッピーになれるけれど、悪ければ本当に悲惨だ。
だからこそ、慎重に創るべきだしその重要性を認知してもらいたい。

その結果、日本経済と建築業界が瀕死の状態になったとしても。

 

11/25 建築士

やっとブログを更新する気になった。
何度か文章を書いては、冷静になって消してしまった。
こんなにも、「一級建築士」という言葉をTVのニュースで聞いた事はない。
それだけに、単に業界の言葉として書くのも嫌だった。

建築に携わる全ての人間にも、消費者側とは違う意味で怒りとショックがある。
でも、それを単純にぶつけるだけでは愚痴にしか聞こえないし、建設的ではない。
今回表面化したのは、業界の環境が末期症状でどうにもならなくなってしまった結果だと思う。

しかし、最近のニュースの流れを見ると、民間に審査を解放したからこのような事が起きたというような論調に収束しているような気がする。
これは、ある意味で正しいのかも知れないが、腑に落ちないのも事実だ。
それは、行政の審査が必ずしも民間より優れているとは思えないのと、今回の偽造を発表したのは民間だからなしえた事だとも思うからだ。
民間審査機関が責任を回避しようとしているのは、会社が良識をもって発表したのだから、そこでの情状酌量の余地を求めているからではないか。
もしも、民間審査機関がなくても、あの構造設計者が偽造をして申請した場合、行政が指摘できるとは限らないし、偽造が判明したときにはたしてその事実を公表するだろうか。

もはや、どこの組織だから安心だというものは存在しない。
あるのは、個人のモラルしかない。
組織につぶされるようなモラルなら、そんなものは必要ない。
たとえ仕事があろうとなかろうと、モラルとポリシーがなくなるようならばその仕事は辞めた方が良い。

自分は仕事を続ける事でしか、その意思は伝わらないであろう。

11/16 木材

最近、社寺建築に関わっているので木材の事を色々調べるのですが、やはり研究すればそれなりに成果というか知らない事を発見するものです。
まず木材の名称が産地によって変化する事。
国産のものであれば、地名が頭につくので解りやすいですが、外国産材は名前そのものが変化するものがあります。
ツーバイフォーでよく使うSPF材なんて言うのは、そういう材種がある訳ではなく単なる総称であって
実際どのような木なのか良くわかりません。カナダに一般的にある木というところでしょうか。
まぁ詳しく調べれば解るのでしょうけど・・・。あまり知りたくもない・・・。
とにかくこの材料は怪しい・・・というか基本的に安易に外国産材を使うと痛い目にあいます。
最近は外国産材のおかげで、新種のシロアリが生息するようになったらしい。
SPF材の防腐剤注入済みのものを使うこともあるようですが、やめた方が良いでしょう。
体の弱い人に薬を打って、こきつかうようなものです。

アメリカ人は材料にこだわらないかわりに、徹底的に腐らないように工夫します。
要は酸素と水が無ければ腐りようが無いのです。だから、濡れない工夫をする訳です。
日本人は木材の素材に神秘を感じる民族なので、素材感を大切にします。だから、素材にこだわります。
こだわるという事は、木に触れていたいという事に直結するので、木を風雨にさらす事が多くなります。
そうすると、上記のような使い方に自然となると思います。

日本人が安い外国産材を見て、それを屋外で使おうという発想は自然な事でしょう。しかし、注意事項が沢山あるということです。
ツーバイフォーの工法自体は非常に合理的な工法ですので、それを否定するつもりは毛頭ないのですが
基本的に日本の木の家とは違うと考えています。
本当の意味での「木の家」は、社寺建築だと私は思います。あれが日本の木の使い方の素晴らしさです。
ただし、そこに住むには相当な根性がいりますが・・・。
寒さに関しては、また別の機会に・・・。

だから、社寺建築は基本的に外国産材を避けます。
日本の林業が現状がどうなのか、まではわからないのですが、決してなくしてはいけないし、なくならないでしょう。日本人が木の素材感を大切にする限り・・・。

私は木に限定する事なく、どんな素材でも素材感を大切にしたいと常に考えています。
そう言う意味では、社寺建築は究極の木造だと思います。

CGで木の表現は難しい・・・。


11/14 知人

最近、昔の知人が設計事務所を主宰して頑張っているのを知りました。
まぁ建築科の学生だし、優秀な人だったので、当然と言えば当然ですが
なかなか他人(それも昔の友人知人)の近況を知るというのは、近くにいる訳ではないので
知る事は難しいと思っていましたが、インターネットの普及で手軽に知る事が出来る事を実感しました。

でも、僕の気持ちは少し複雑です。
嬉しいような、悔しいような・・・。
詳しくは語れませんが、同じ環境で過ごした人間が年月を経てどうなるのかは本当にわからないものだと感じました。
同じような事を目指していたとしても、人はそれぞれに自分の道を探して頑張るものなのだと。
それが、王道であろうが邪道であろうが、見えている光はきっと同じなのかなと。
そこに当てられる光も陽であったり陰であったり、様々で。
でも、やっぱり見えているのは同じかなと。

少し襟を正して、頑張ろう・・・。



11/11 陶芸


先日、以前よりお世話になっている陶芸家の先生の所に行ってきました。
最新作の”かまだし”だったので、いろいろな作品を見せて頂きました。

そこで見た不思議な物体・・・↓

何やら、中華の春雨に包まれたような陶器・・・。
陶芸に詳しい方は、ご存知かと思いますがこれは「ワラ」なんです!
ワラの繊維質が残って、こういう状態になるそうです。
備前焼はこれを使って、模様を付けるのが基本だとか・・・。
あまりの美しさに、思わず声を上げてしまいました。
よく見るととっても美味しそうな・・・。

陶芸も創られたものは、器という機能を有しているものだけれど、その美しさは様々だ。
むしろ機能を超越した所にその存在価値がある。
そう言う意味では、建築に通じるものが感じられる。
建築の価値に、機能以上の価値を付加したいし認められたいと考えている人間にとって
そういうモノづくりの現場を見る事はとても刺激になるし、勇気づけられるものだ。

そして、この先生は作品を非常に良心的な値段で提供してくれるのだ!
そういう姿勢は本当に感動的なことだと思います。
私もたくさん作品、買ってしまいました。
ありがとう、先生!

戸隠の山と陶芸の世界を堪能した一日でした。



11/10 作業

建築に限らずデザインという行為は常に作業との戦いがあると思う。
コンセプトばかりに頭をひねってみても、形にしてみないことには始まらない。
しかし、単に形にとらわれていても良いものは生まれない。
常にかたちと理論の間を行ったり来たりしながら、最終的な創造物に近づいていく。
そのtry and errorが多ければ多いほど、その創造物は説得力を増してゆく。
射程距離をとろうとすれば、その方向性もさることながら、飛距離も大切。
創造物における飛距離とは、その完成度に他ならない。

だから、作業を侮ってはいけない。
作業をしているときに、ふとアイディアが浮かぶこともある。
ルーティンワークは創造的でないというような認識があるが、それはやり方次第だと思う。
ルーティンの先になにがあるのか、その目的の設定によって質が全く違ってくる。

昔は、作業が嫌いだったなぁ・・・。


11/08 暮らしかた

先日、テレビでデューク更家が出ていたのですが、あの方はモナコに住んでいるらしくその家を紹介してました。
そこで、驚いたのはとてもセンスのある暮らし方をされているのです。
それに、感動しました。
ある程度お金を持つと、その人の本当のセンスというのが表れると思っているのですが、あのご家族のセンスはとても好感が持てます。
日本のお金持ちにセンスが良い人が少ないのが、日本の街をダメにしていると言うのが私の持論ですが、あのような人がお金を持つのは非常に良い事だと思います。
でも、そう言う人はモナコとかに行ってしまうのですよね・・・。

散歩をした帰り道に花を買える市場があるのは、日本にはなかなかないですからねぇ・・・。

自分を含めて、ハイセンスな暮らし方はお金がなくても出来る事なので少しずつ実践しようと思います。
むしろ私が求めている、ミニマルな暮らし方はお金がない方がいいのかもしれない・・・。

さっき調べたら、デューク更家氏は教授に就任されているのですね・・・。
ビックリしました。



11/07 夢

デザインとはあまり関係ないですが、プロ棋士になられた瀬川さんを見て勇気づけられました。
同世代なので、夢を追い続ける姿にとても共感します。
ご両親の心配する気持ちも解るし、ご本人の気持ちもすごく良く解る。
これから、もっと大きな敵と戦わなければならない時があると思いますが、くじけずに頑張ってもらいたいです。
陰ながら応援させて頂きます。

それとは、逆に夢が終わってしまった「本田美奈子」さんの悲報がありました。
特別なファンという訳ではなかったのですが、ひたむきに歌を歌い続ける姿にいつも勇気をもらっていた気がします。
「夢が終わった」と最初に書きましたが、あなたの夢は終わっていません。
素晴らしい歌をたくさん残しています。
その思いは消える事が無く永遠です。そして、それを勇気に生きていける人間もいるのです。
だから、終わりません。始まるのです。
いつも、終わりは何かの始まり・・・・。

 


11/01 コンペ

webコンペの結果が出たようです。
残念ながら入賞は出来ませんでした・・・。

webコンペは審査の基準が非常に難しいと思います。
建築家は施主の要望を形にするのが前提にありますが、ただそれだけを全うするのが我々の仕事だとは思いません。
施主の要望を無視する事が正しいとは思いませんが、それに屈してしまうのもおかしいと思います。

少なくとも建築「家」という称号を頂けるのなら、そのポリシーに反するものは創れないし創ってはならないと思います。
だから、建築家は案だけでは選ぶ事自体、ある意味危険な事だとも言えます。
施主の見えない要望を形にする事、さらに建築として価値のあるデザインに昇華させる事は並大抵の努力ではなし得ません。
建築の価値をどう見るか。
建築は単に機能的な箱であるものではなく、それ以上の価値を持ち得る可能性を持っています。
その価値を求めるならば、真の価値を創造できる建築家を選ぶ努力をお勧めします。

注)入賞できなかった事を愚痴っている訳では、決してありません。(笑)



10/24 表彰式

明日は、グッドデザイン賞の表彰式があります。
久しぶりの東京ですので、ちょっと建築散策をしようと思案中。
地方にいる人間としては東京は刺激的ですが、だからといって東京にいたときに
いろいろ見ているかと言えば、そうでも無かった気がする。
要はどこにいても見る気がなければ見えないものも多いという事。
それを東京を離れて実感します。
だから、定期的にこういう時間を作る努力も必要。

 

10/07 無料相談会

明日から3日間、建築家による住宅の無料相談会を松本の「サンピア松本」にて行います。
私はもちろんのこと複数の建築家が出席にしておりますので、お近くで興味のある方は是非おいで下さい。
建築の展示としても面白いかもしれません。



10/06 図面

最近お会いした、工務店の社長の言葉。
「うちは元請け100%なんだけど、設計図書のある仕事をした事が無い。」
あまりの非常識さ加減に言葉がでなかった。
役所的な事務手続きは、外部の建築士さんにお願いしているのだけれど。との事。
「それは、代願といって不法行為なんですけどね」と伝えると
「へーそうなんだ。」と社長。
「だいたい自分の書いた図面に筆を入れられることを平気で認めているということですからね」と私。
「ふーん」と社長。
初対面の人なので、それ以上は突っ込まなかったが、明らかに知識不足で、それに自分で気がついていない。
某六大学の法学部卒だそうだが、建築基準法くらいまともに知らんのか!
木造塾だとかに通っているそうで、そこで構造計算の勉強しましたと自慢げに語る。
「あのー それ学生がやる事ですけど・・・」と思いながら苦笑する私。 
おまけに、その後建築家に対する偏見をぶつぶつ聞かされた。

工務店であろうが設計であろうが、建築に携わるものなら、最低限の知識を持ってから他人を批判した方がいい。
職人のことは良く知っているど、法律知らないで、社長が務まるのだからお気楽な会社だ。
長野県の業界の質を疑ってしまう。

どうする田中知事!


10/06 見た目

その人がどういう考えを持っているのかとかどういう人の見方をしているのかは、少し話した位ではなかなか解らないが、酒の席とかそういう場であると、割と簡単に解る場合がある。
多かれ少なかれ、初対面の人間に対しては誰しも良く思われたいという意識が働くので、自分の良い部分を見せたくなる。その場合、自分も含めて相手を見た目で判断している部分が非常に大きい。
しかし、人間性というのは概して見た目では判断できない。
だからこそ、私は直感というものに頼っている。
瞬間的にいいと思える人に対しては、点数が甘くなるかもしれない。
でも、人間性というのはおかれた状況によって、変化していくものだと思っているので、相手とどういう関係を持つかによって、評価の分かれる事だとも思える。そう言う意味では非常に多面的で多角な視野が無いと判断するのは難しいし、その判断は個人的なもので自分以外に適用するのは難しいものでもある。
それだけ、人間関係というのは複雑で、多様だという事でもあるのだろう。
一つだけ言えるのは、見た目で判断しないように心がけるべきだし、できるだけ包容力を持った視点を持つのが大切だという事だ。



10/05 value

建築はさまざまな社会性の中で、生まれていく。
それは、芸術性や機能性や存在価値だけでくくられるものではなく、それら全ての「力」すべてが
集約されて生み出される。
建築家はその大きな「力」の中で、もがき苦悩しながら空間を生み出さなければならない。
そこで、生まれた価値は大衆にどれだけ理解されているのか。
名建築が多くの人々に愛されるのはそれが、平均的なモノだからではない。
かつて、エッフェル塔が受けた批判の多くはそのデザインであったようだが、時間の流れとともに受け入れられ、愛されるようになる。
今の異端は明日のスタンダードの可能性を持っている。
批評性が無いものは、いつの時代でも無批判に忘れ去られる。
それだけは避けていきたいと思う今日この頃。
世の中を批評し続け、自分自身を批評し続け、創造という唯一の武器に磨きをかける以外に
生きる道はない。


10/03 グッドデザイン賞

正式に発表されました。
Good Design Award 2005 受賞いたしました!
住宅では40棟あまりが1次審査で残っていましたが、ハウスメーカーを除き10棟ほどに絞られたようです。
以前に内定の通知があったのですが、やはり嬉しいものですね。
日頃の苦労が報われます・・・。


09/30 soho

最近は自宅で仕事をしたりする人も多いと思うが、その中で本当に一人きりで仕事をしている人はどの程度いるのだろうか。
私も経験者として、考えるのは本当に一人きりでは思った以上に能率は上がらない。
原因を理論的に説明でる訳ではないが、少なからず人は支え合ったり影響を与えながら、生きているという事の証だと思う。人は一人では生きられないと言うが、今の時代に一人で生きていると勘違いする状況が日本では沢山ある。
例えば外に行けば、数百メートルおきにコンビニが並んでいて、食べるものに困らないし、生活に必要なサービスを受けたければ、それ相応の施設がそろっている。
金さえあれば生きていくのに不自由がないと言えるかもしれない。
その金を得る手段が自宅にあれば何ら不自由しないかもしれない。

しかし、もしもそう思っていたとしたら、全くの勘違いである。

収入を得るという事は少なからず他人と関わってこその仕事であり、それを一人きりでこなすのは非常に非効率に思える。厳密に言えばコンビニに並んでいる食材の原料を作っているのは農家の方だし、それを加工するのもどこかの会社の仕事の結果である。一方で仕事の種類にも依るという事も考えられるが、どんな仕事でもそれは他人に対しての成果が仕事である以上人間を排除する事は出来ない。
それがIT産業であろうが何だろうが結局人間に対する成果が仕事だと思う。
だから、仕事をする環境も人と全く触れ合わないでするのは不自然だ。
集まってする仕事には、それに伴う不便さや効率の悪さも存在する。
でも、だからといって一人きりで仕事ができるとしたら、それは機械である。
だから、仕事と関係ない人でも、そばにいるのといないのでは全く違う事に、最近になってようやく気がついた。

そう、何も同じ仕事で一緒にいなくとも良いのだ。

お互いに全く違う仕事をやりながら、同じ場所で働く。
だから、社屋なんてモノはいらない。いるのは気のあった仲間とその空間があれば良い。
事務所の間借りの発展系のようなものと言えばそんな感じ。



09/28 competition

最近、またコンペの応募に挑戦中です。
以前は、割と頻繁に応募していたのですが、最近遠ざかってました。
一時期はコンペに応募しようと思っていても、頭がついていかないというか
イメージが湧かないスランプもあったのですが、ちょっとそれも抜け出しつつあります。
さらにブラッシュアップできるようがんばるっす!


09/26 ウイルス

先日、事務所のmacがウイルスに感染してしまいました。
早速ウイルス駆除ソフトで撃退したのですが、そのウイルスはwindowsにしか感染しないタイプなのです。
なぜ感染したのか、不明なのですが・・・。
macはウイルスに強いので、少し油断したのがいけないのかも知れない。
macユーザーの方は、いざというときの準備だけは怠らないようにしたいものです。
しかし、あの迷惑メールの束は何とかしてほしい・・・。



09/21 good design award-3

グッドデザイン賞の審査が一段落したようです。
まだ金賞の審査会は終わっていないようですが、さすがに金賞にノミネートされるのは難しいです。
審査会は明日ですが、既に展示用パネルが戻ってきました。(笑)
会場で他作品と比較して、まだまだな部分が目についてしまって「修行が足らんなー」と感じてしまいました。
作品のレベルをあげる事も重要ですが、プレゼンの仕方も考えないと・・・。
結果については、正式な発表があり次第報告しようと思います。



09/17 作家性

建築に関する作家性の問題は一般的にはどう捉えられているのだろうか。
建築を芸術と見るか、機能的な装置と見るか。
不動産の観点からだと資産になる。
不動産に限って言えば、時間を経るごとに償却されていき最終的に価値はなくなる。
芸術的な側面からだと、デザインが評価されたり有名になればそれは価値が高まる。
そしてそれは時間軸とは関係なくなされる。今評価を受けなくても後に評価が高まる場合もある。
装置に関して言えば、機能を充足するためにのみ存在する。
その機能を満たさなければたとえ新築であっても、価値はないと言えるだろう。
作家性は芸術的な側面にのみ適用できそうだが、それだけではない。
建築のあり方は常にそれぞれの軸を一次元的ではなく三次元的あるいは複合的に決まるもので、その評価もさまざまだ。
しかし、ある意味それが連動しているときも多々ある。
それは使用頻度と強度の関係に言える。
繊細なデザインは、使う人間を選ぶ。
使う人間を選ばないデザインは繊細にはなりえないと思っている。
だからこそ、それが成立しているのであって、成立させる努力なしにはなしえない。
デザインが極められればそれだけ、対象がピンポイントになっていくのは当然。
だからこそ、万人に使用できるものではなく、選ばれた人間に与えられると言える。
その点では公共建築は難しい。タテマエ上は万人に合わせなければならない。
以前に札幌ドームに訪れたときのこと。
テラスの手摺がガラスになっているのですが、となりのおじさんが何を思ったのか
突然思いっきり蹴りだしました。それも数回・・・。
それで一言「結構丈夫だね」
・・・・・・・
はっきり言ってそんなことにまで対応するべきなのか。
それで割れてしまったら、弱いといって文句を言うのか。
その人間の行動自体に問題があると言えるが、現実にそういうことをする人間がいるということに大変驚いた覚えがあります。
だから、ユニバーサルデザインが前衛になれるのなら、それはものすごい発明だと思う。

ハウスメーカーはプレハブが基本なので合理化が大前提である。
しかしユーザーの購買意欲をかきたてるためにほとんどがオプション化していき当の昔に自己矛盾している。
難波先生の箱の家はそういう矛盾に対する批評なのだと思う。
だからある意味難波先生がハウスメーカーとも言える。
建築家の作家性は、かき消そうとしてもかき消せない、そういうたぐいのものだとすれば、現代の住宅のクライアントはどう感じるのか。
求めているものは、批評性だという言説を読んでみたが、いまだ結論は見えない。


09/16 設計事務所

先日、とある方と話をしていたら、某有名設計事務所の出身という事を知って
興味深くお話聞かせて頂きました。
その方は、今は創り手とは少し違うポジションで建築に関わっているようです。
これだけ建築科の学生が毎年卒業しているのだから、いろいろな人がいると思います。
むしろ、建築が好きな人がもっといろいろな業種の中に増えれば、少しは変化するのかと思います。

建築家も商品化が進んできて、ブランド化しているような・・・。
まぁ少なからず建築家自体がブランド品みたいなものですが。


09/15 地元

地元とはなんなのか。
日本は単一民族で、特に民族間で争っている訳でもない。
そんな中で、地元を応援したりするということはどういうことなのか。
日本人が海外で活躍しているのを見て応援したくなるのはすごく良くわかるが
地元の人間にしか興味がなかったり、むしろ排除しようとすることには、違和感がある。
同じ日本人なのに・・・。
これだけ交通の発達や情報の流布が激しい時代における地元という概念はどうなるのだろう。
むしろ全てが横並びで教育をされているからこそ、ムダにカテゴライズされたがっているのか。
選挙でもそうだが、なにかやってくれそうならば、そう感じたならば、素直にその感覚に従うべきだ。
情報に流される訳でなく、感じた事に素直になる事が重要だ。
いいと思う事は認める事。
それは、全てにおいて言える事。


09/15 木

自然に対する思い。
よくエコ派とか自然派とか言って、木材を中心に使う住宅とか炭が入ってますとか・・・
そんな住宅をつくっている人がいると思います。
その事自体は間違ってはいないと思いますが、それが善でそれ以外は認めないという姿勢は問題だと思う。
建築は本来、人口的なものでどんなに自然を装っていても純粋な自然ではない。
自然の中にももう既に純粋なものはない。
ほとんどが人の手が入り何らかの人工的な施しを受けている。
建築はその最たるものだと思う。
だから、エコとかいって自動車を大量生産しているのは、自己矛盾している。
人間は存在そのものが自然である。
時々人はそれを忘れてしまっていないだろうか。
人間は機械ではないのでどこかのパーツが壊れたからといって交換したとしてもその時点でバランスが崩れる。
機械のようにボタンを押すと全ての人に同じ反応がでる訳ではない。
だから建築はとことん人工的でいいと思う。
木の家を見ると心が癒されるのは、その向うにある大自然のイメージを喚起しているからだ。
木の家を増やすより、林や森を増やした方がよっぽど健康的だと思う。
人間はそれをある程度コントロールする事で、地球上に仮の住まいを創っているに過ぎない。
木という素材を否定するわけではない。むしろ敬愛している。
でも木の家という固定されたイメージを壊したい。
人間が自然である以上、どんなに排除しようとしても、自然さがにじみ出てくる。
それを否定せずに引き出して、うまく構成するのが重要だ。




09/14 自然

最近の自然災害の被害を目の当りにしていて感じることは、自然は人間がコントロールできるものではないという事。
この地球上のシステムは非常に高度にコントロールされていて絶妙なバランスのもとに動いている。
それは人間が構築した物ではない。その数パーセントをやっと人間が解読したに過ぎないと思う。
西欧諸国では自然は征服するのが当たり前で、コントロールできて当然という考えが主流らしい。
だから、アジアの人間と明らかに自然に対する接し方が異なる。
アメリカは国土も広いので、場所によっては気候が優しいところもあるだろうが、今回のハリケーンのような驚異的な自然も存在するので、中間的なのだろうか。
しかし、毎年の自然災害の報道等を見ても自然の脅威を見せつけられるだけで自然を征服しようと言う気すら起こらないし、それがアジアの人間なんだと思う。
だからこそ、日本に住む事において大事な事は何なのか、どこに住むべきなのかを自分自身で判断しなければならないと思う。
そこに住むと決めたらそれに対して、十分に対応するべく考えるべきだ。

ある建築家は東京の街を歩いている時、常に「今地震が起こったら助からない」と思うという。
それは、そういうところを歩く事にも自身の覚悟が必要という事だし、どうしても死にたくなかったら
そのような所に近づかない事だ。
すでに東京はそのくらいに深刻な状況になっている。災害自体を起こさないようにする事は不可能だ。
だからこそ、個人個人のやり方で身を守るすべを考えなくてはならない。



09/13 正義

選挙が終わって感じる事。
投票率が上がったことは非常に良かったと思う。
でも、何となく日本という国の将来は本当に大丈夫だろうかという不安は消えない。
なんだかんだ言って、自民党が一人勝ちしてしまう現実・・・。

一つだけどうしても許せないこと。
それは、鈴木宗男氏が当選した事。
私は北海道で生まれたので非常に気になるのだが、ああいう人間は許せない。
なぜ、被告の身で選挙にでるのか。法律が許したとしても、どうして国民がというか道民が許してしまうのか。
結局北海道のために頑張る人は道民のヒーローであり、正義だ。
それが、例え法を犯し、他人を陥れ、地球環境に何の利益をもたらさないとしても。
そう思って彼に投票しているとしたら、北海道も日本にも未来は無い。
いずれそのツケは必ずまわってくる。
それが、現代の日本国民ではなく未来の子孫達に・・・。

ライブドアの堀江さんも応援していたのですが、残念です。



09/08 空気感

私の事務所は正面にガラス面があってそれが道路に直接面している。
そこはある程度人通りがあって、いろんな人が通り過ぎる。
透明ガラスだが、フルオープンにするといろいろ問題があるので、スクリーン越しにその風景を眺めている。
スクリーンでもかなりの気配を感じられるので、気に入っている。
ちょっと解像度の悪い映画館みたいで・・・。
昨日は、台風の影響かもしれないが不思議な夕焼けが美しかった。
何とも言えない色彩で、それがガラス面いっぱいに広がっていた。
同じ場所からじっと外を眺めていても、同じ風景は二つとない。
常に何かが変化している。
本当は景色だけでなく、空気感も連動させていけるのが理想的。

西日本では被害が大きかったようだけれど、私の所は雨すらほとんど降らなかった。
地震もそうだが、自然災害はいつ遭ってしまうかわからない。
ほんの数メートルずれていたために助かったり、被害に遭ったり。
いざという時の備えだけはしておかないと思っているが実際は・・・。


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09/07 一元論

引き続き養老先生の著作の話題。
「逆さメガネ」を読み終えました。
共同体と機能体、一元論の難しさ等興味深いです。
ここでは一元論について。
これは建築にも通じる話。まぁ全てが通じると言えば通じますが。
かつてミースが構想した均質空間。
世界の空間全てが均質空間になってしまったら・・・。
そういう質問をミース本人が受けた事があるらしいが、どう答えたかは知らない。
恐らくそんな世界はあり得ないと思っていたに違いない。
建築家はその手法を一般化するかのごとく論じる事がある。
でも本当はそんな事を本気でしたいとは思っていないのではないかと思う事もある。
建築は一品生産だから、そこには唯一無二のモノが建つ。
でも、それはたとえ他に同じ形をしているものがあっても同じではない。
現実の世界で同じなものは二つとしてない。
「同じ」ということが意識でしか認識できないのが良くわかる。

例えば、設計者が同時に10棟並べて住宅を設計したとして、どんなモノが最善なのか。
それは、視点によって全く違うものが出来る。
例えば、10棟が一つの建築として全体が関連し合っているという見方とある棟を一般化して
それが反復するという見方。
この例を考えても一元論では歪みがでそうだ。
でも現状はだいたいが後者の例で街を反復しているのが多いと思う。
似たような街が反復される。

でも変わらないものもある。
それは、地球上の環境の中に建つということと、人間が使うという事。
人間の大きさはそれほど変わらないが、環境は注意をしないと簡単に変わってしまう。
でもそのデリケートな環境と一緒に建つという事は変わらない。


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09/06 都市化

養老先生の著作「逆さメガネ」を熟読中。
そこでの「都市化」論が興味深い。
都市と聞くと建築関係者は思わず反応してしまうが、建築個別を論じるものではない。
都市化=自然を排除する
このことを今まで人類は無意識に徹底してきたことによる歪みが現代の問題だという指摘である。
一番の問題は少子化であり教育が問題なのだが、それは上記の都市化によるものであるという。
子供は自然であるーという養老先生の指摘は正しい。
この本を読んでいて、自分自身もその都市化に加担していることに気がついた。
それは、建築を創る事に対してではなく、自然を無意識に排除しようとしている事において。
私は長野という一見自然に恵まれていそうな所に居住しているが、明らかに都市化された生活をしている。
それは、この日本ではどこにいっても同じだろう。
しかし、問題なのは環境がそのように都市的なのではなくて、意識が都市化されているという事が問題である。
それは、養老先生が言う通りすべて人間のあるいは大人の都合にあわせて環境を構築しまた構築したいと意識している。
人間は意識なしには創造できない。だから望むようにしか創造はできないものだ。
建築を含めて人工物は、自然を排除する事で成り立っている部分が多々ある。
かつて、この地球上を人工物で埋める事を夢見て、ユートピアを無想していた時代があった。
しかし、それはもう自然そのものである人間さえも自ら構築した人工物で絶滅させてしまう可能性孕んでいることに皆気がついてしまった。そして、その意識は今も密かに人間の意識の中に潜んでいる。
だからこそ、なかなか環境破壊が減らないのではないか。
自然と共存しなければいずれ人間自身も生きていけない。
しかし、かつてユートピアに憧れた意識は世代を超えてくすぶっている。
建築はその意味では最先端の行為である。
建築が未来を構築している。だから苦悩する。
このままで良いのかと・・・。


09/05 ミニマム

先日、何気なくテレビを見ていたら惚れメールなどというものをプロのクリエイターが真剣に考えていた。
そのメールを読むと惚れてしまうというコンセプトの上で。
そこで色々な議論を交わすうちに、収束したメールはどうなるか。
これはデザインを考える上でとても参考になる。
メールという限られた手段の中で人の気持ちを動かすのは容易ではない。
でもメールにしか出来ない事が必ずある。
そこにクリエイターの腕が問われるのだ。
建築もその点では同じ。メディアはとても浸透速度が速い。というか速くなってしまった。
建築の評価はそんなに速く結論は出ないものだ。
そう言う意味で建築はメディアに刺激されている部分が多くあると思う。
良い意味でも悪い意味でも。

ところでそのメールはとてもシンプルな言葉だった。
建築も言葉もミニマムな方が良い・・・。


09/02 公共

黒川紀章先生設計の姫路城の近くにあるトイレ兼休憩場が荒らされるという事件が多発しているそうです。
この2億円のトイレ、数年前に訪れた事があります。
当時既に休憩所はほとんど使われていませんでした。
この事件は、まさに日本人の公共施設に対する感覚が浮き彫りになっているのではないでしょうか。
欧米では公共の施設を大切に使用していますが、日本では道路標識まで私物として持ち帰られるほどです。
私物と公共物の区別があいまいなのでしょうか。
これは、あの椅子を折曲げた犯人だけの問題では無いような気がします。
もちろん犯人は罪を犯した事実を償わなければなりませんが・・・。

自然環境はまさにこういった、公共に対する姿勢と同じだと思います。
みんなが譲り合いながら自然を分かち合う事が出来なければ、環境破壊は止まる事は無いでしょう。
私も含めて都市に住む全ての人間が少なからず環境の破壊に加担しています。
そのダメージを認識し、改善するよう努力しなければ地球上で最も有害な害虫に成り下がってしまいます。
環境とは自分だけのものではない事を痛感してます。



09/01 自分

私が学生の頃は自分探しが流行した事もあった。
一人旅をしてみたり、何かに挑戦してみたり・・・。
自分を知るということはどういうことか。
自分が自分を一番良く知っていると思いがちだが、本当にそうだろうか。
自分を客観視できる人はそうはいないと思うのだが、そうだとすれば客観的に見る事も難しいだろう。

私は、最近自分を知る事が一つ増えた。
それは、悪い事か良い事か解らないが、とにかく知った。
知ってしまったからには、知らない自分とは違う。
それを良い事にするか悪い事にするかは、私次第。
知るという事は知らない事を知る事でもある。

私はそれを知ったとき泣いた。
悲しかったからではなく、嬉しかった訳でもない。
そういう喜怒哀楽の先にある感情が知らない間にこみ上げてきた。
涙が止まらなかったが止めたくもなかった。

不思議な感情だった。
今思い出しても、いつでも涙があふれそうになる。

そういう自分をも知ってしまったし、知らない事にも気がついた。
きっと明日からは違う自分に出会えるかもしれない。

モノを創る事とは関係ないかもしれないが、自分の中から想像される以上
自分と無関係ではいられない。
自分と向き合って初めて、創造することが出来る。
だから、自分を知る事も大切。



08/31 かたち

お金がないけど良いものが欲しい人は沢山いるだろう。
でも、その欲しさ加減というか情熱というか、その大きさ強さは人それぞれ。
さらに、どういったものが良いモノなのかに至っては、まさに十人十色だろう。
私は、デザインを考える立場なので、かたちにこだわると思われるかもしれないが建築にとってかたちにこだわるだけでは良いモノにはなれない。
建築は物質であるから、ある形をとらざるを得ない。
しかし、そのかたちの先に見えるものが無ければ虚しいだけだ。

デザインはどうやって考えるのですか?と聞かれる事がある。
その手の質問には非常に答えづらい・・・。
なぜかというと決まった方法が無いからだ。
ただ、ひたすらに良いモノとはなんなのかを自問しながらそれに近づけるように努力しているのみである。
だから方法というより熟成といった感じか・・・。

そのときに考えうる最高の良いモノを提供するべく出した結果が、クライアントに受け入れられたら、こんなに嬉しい事は無い。

受け入れられようと思うのではなく、純粋に良いモノを追い求めた結果を受け入れてほしいといつも願っている。
それは、ただ単にかたちを追い求めているのではなく、その先に見えるものを共有したいと思っているのだ。
建築家に何かを求める時は、そういう姿勢が大事。
多分、それは私だけではないと思っているのだが・・・。

しかし、ここで重要なことはモノを創るという事はコストの問題を避けられない。
そしてそれが不動産ということになれば、資産としての価値を問われる。
これが、建築を複雑にしまた社会的な価値を得る力になっているのだが・・・。

これが一番難問。


08/30 アート

建築にとっての芸術や芸術性とはどんなことだろう。
芸術は本来人間のためにあるべきものであるが、芸術を極めていくと芸術のための芸術に陥る可能性を孕んでいる。
そして、芸術はある意味希少価値を売り物にしているので、それが大量に複製されると価値そのものを失う可能性があることも考えられる。
だからこそ知的財産権が存在するが、建築の場合の知的財産権は極めてオープンである。
少し有名な建築であれば、材料やディテールの情報を簡単に得る事が出来る。
しかし、それで同じ建築が創る事が出来るかというとそんなに甘くはない。
確かに、オリジナルに近づくことはあるかもしれないが、所詮それは模倣であって有名画家の模写のように似て非なるものになる。
建築にとって材料や構造はその求める空間に対する一つの解答であって、目的ではない。その目的に忠実であればあるほどその選択の結果はその選択者唯一の方法となる。
そういう作業は雲をつかむようで際限がない。
そして、それは実務的な問題に直結する場合が多い。
早い話が単純にコストにはねかえる。
しかし、かつてケーススタディハウスのコーニッグが安そうに見えるという理由でベニヤを多用していた。当時では本当は高いのにだ。
それには、安そうに見えるその見え方を求めていたからであり、実際に安いか高いかは問題では無い。
だからこそ、ケーススタディハウスは評価され、ある種の時代を表現する作品になっている。
今の標準はかつての特殊であったり、今特殊であってもいずれ標準的になる事はよくある。だからこそ、どのような空間にするのかは、その素材の本質を見抜かなければ表現できない。それを求めていれば、自然と時間に対する解答にもなり得るのではないかと考える。

芸術はその物体が芸術に昇華する事もあるだろうが、建築の場合はその環境自体が芸術的であり、それがより生活に密着している方がとても美しい。
そして、それは簡単に感じられるものでは無く、やはり人間の方に問題があって埋もれている事の方が多いと思う。
それを、引き出したりより輝かせる事が建築や建築家のとっての使命だと思う。
そして、そのような建築が愛され大切にされるのが最も大事な事だ。
そのためにはただ単にきれいなだけではない、チャーミングさが必要だろう。

かわいい建築・・・。

 

08/29 仕事

仕事というのは一般的に、どんなことを指すのだろう。
多分、お金をもらってする事というのが多いのだろう。
確かにプロとアマチュアの違いってお金だったりする。
でも、それは一つの判断基準であるが、全てではない。
私が思う仕事は、その人に与えられた天命というか宿命と言うか、そう言うたぐいのものだと思っている。

漁港で働くおばさんが、漁は商売だと思ってないのよねー。と言っていた。
おばさん曰く楽しみでやっているそうだ。
そう・・・これが理想の仕事なんだと思う。
お金をもらう以上楽しみだけでやれない部分が多々あると思う。
でも、そういう姿勢があればその仕事は理想に近づける。

あなたは仕事を楽しんでますか・・・・。


08/26 デザインの意味

デザインというのは、時間と切り離せないものだとつくづく感じる。
この時代にあるからこそ意味のあるものは沢山ある。
歴史においても同じだ。
人間の形と人間に与えられた環境は1000年前とそれほど変わらない。
その中で、人間が自ら作り出したものは沢山ある。
それによって、生き方が変わったり与えられた時間が増えたりしたかもしれない。
でも、基本的に人間が実際に触れ合う建築にとって大きな違いはない。
だから、建築も1000年前とそれほど変わらない。
むしろ変わらないことが、建築の存在意義である。
人間の意思は変わりやすい。
だから、意思を建築に刻み込む。

デザインすることはその意思を丁寧に刻み込むこと。


08/24 good design award-2

昨日、グッドデザイン賞の展示の設置のため、有明に行ってまいりました。
久々の東京で楽しみだったんですが、滞在予定が変更になり、とんぼ返りとなってしまった。
でも、東雲の集合住宅を見て(通ったの方が正しいかも・・・)きました。
行脚と呼べるほどのものでは無いのですが、一応記録として。
山本理顕さんと伊東豊雄さんと隈研吾さんというビッグネームの建築は、それがそうだと解るようなオーラを持っている。単にそれを知っているからと言う訳でなく。
隣に何棟か別の設計者の建築があるが、それが誰の設計かということに関わらず隣の建物とは明らかに違っている。というか普通に見えてしまう。
その建築は、レベルとしては平均的な建築を遥かに上回っているだろう事は解るが、何か物足りなさを感じる。それがオーラといってしまえば話は単純だが・・・。
そこに、何か違うものが存在しているのは確かである。だからこそビッグネームでいられるのだろうし。
でも、その違いをうまく説明できるだろうか。
確かに目に見える違いを挙げる事は容易いが、それだけであのような結果に至るのだろうか。
そう言う意味で、非常に興味深い建築だった。

グッドデザイン賞は明日から有明ビッグサイトにて一般公開です。
興味のある方は、是非会場へ行ってみてください。


08/22 ホワイトキューブ

建築行脚の記録
朝日新聞山形支社 設計は妹島和代設計事務所。
これを雑誌で見た時は衝撃的でした。
実際にみても、通常の建築とは明らかに異質なオーラが漂っている。
妹島さんの建築を見るたびに、建築の抽象度の問題を考えさせられる。
抽象的な美しさの先に何があるのか・・・。
その抽象さに勝る美しさは無いのだろうか。
その抽象さと人間の具象さは乖離していかないのか。
住宅を創ってみてあらためてその問題の深さを感じる。
この建築は住宅ではないが、建築である限りその抽象と具象の間で揺れ続ける。

抽象性を落とさずにブレイクスルーができるのだろうか。
私自身の課題でもある・・・。



08/19 卵ドーム

久々のブログ更新です。
世間の民族大移動に同行してきました。
車にて帰省したので、長旅になりました。
途中でいろいろ建築を見ながらの予定だったのですが、そんな余裕は無かった・・・。

今回の記録
大館樹海ドーム 設計は伊東豊雄事務所。
以前に一度訪れた事があるのだが、二度目の訪問。
内部の気持ち良さは最高です。木のメッシュに包まれている感じ。
ドームの屋根を水平に浮かしていて視線が抜けている。伊東さんの曲線は妹島さんにも引き継がれているのがよくわかる。
しかし、それが全面に出ているのではなく滲み出てくるようなデザインになっているのが共通している。どちらかと言うと、伊東さんの方が意図的にそれを制御している感じ。
妹島さんはもっとストレートな感じがする。
ドーム建築と言えど、優れたデザインは美しい。
組織事務所の作品が多数あるが、原さんや伊東さんに及ばない。

外構の照明のデザインがシンプルで再発見。
隣の敷地に新たに体育館が建設されていたが、デザインがイマイチでドームとの連続感はまるで無い。誰の設計だろうか・・・。


08/12 sexy

先程、テレビを何気なく見ていたら明治大学の教授の齋藤孝先生が出ていた。
知らない人はけんこうこつのCMと言えばお分かりになるだろうか。
声に出して日本語を読む事の大切さを訴えている人。
他にもいろいろな事を面白い視点で語る人です。
その番組で、セクシーさについて語っていた。そして、黒柳徹子に「あなたの頭の回転の速さが凄くセクシー」と。
つまり、齋藤先生によればセクシーさとは一般的にエロスな固定観念があるけれど、そうでは無いセクシーさがあると思う。
素晴らしい早さで問題を解く=セクシー
スポーツにおいて、誰にも真似が出来ないほど華麗なプレーをする=セクシー
ということだ。
これには、思わず「ナルホド!」と言ってしまった。

セクシーとは刺激を受ける事であって、それは性的な刺激だけではないということだ。
脳にとっては性的な刺激もそうでない刺激も同様に活性化されるはずだし、それは同じように快楽をもたらす。
だから、その刺激そのものがセクシーなんだという事だと私は理解した。

こういう観点は非常に興味深い。
他にも、けんこうこつ体操の意味とか、うなずき健康法とか、この人は本当に面白い事を考える人だと思う。
ちょっと勉強したくなってしまった・・・。



08/10 衆院解散

解散してしまいましたねーとうとう。
でも、小泉さんは間違っているようにはあまり思えない。
確かに「身勝手解散」とか言われていますが、郵政民営化はずっと訴えてきた事で今に始まった訳では無いから。
それが、否決されるなら自分が否定されるのも同じ。という理論は国民にとって至極解りやすい。
法案を通すということは、巨大な利権の争奪戦になるだろうから、水面下でいろいろなことが蠢いていると思う。だからといって、あからさまに国民を無視していいわけない。
小泉さんも利権が絡んでいるだろうし、それが全くないのは疑わしいが、少なくとも国民には政治家として信念を持っているように見える。
それが、実は違っていたとしてもそれを判断する情報は与えられていないし、今の法案が良いか悪いかの情報も与えられていないように思う。
ある議院が法案の内容を吟味する必要があるのであって、賛成か反対かという単純なものでは無い
という事を言っていたが、それは少し違うと思う。少なくともそれは今やる事ではなくて、法案を作成する段階で意見するべきではないだろうか。

政治家にしても建築家にしても、そこに自分の仕事に対する美学が無ければ成り立たない。
美学自体が間違っている場合もあるが、そういう理念があってこそ”家”の称号を与えられるのだ。
それが無いならば、政治”屋”であったり建築”屋”であったりするだけだ。
政治家を一つの職業と考えるなら、それで良いかもしれない。
しかし、その職能には多くの国民の未来が託されている。その事実を国会議員の皆様はどう受け止めるのか。
ある意味、そういう政治屋があまりにも多く見えるから、国民は政治家がうさんくさく見えるのだと思う。
少なくとも、小泉さんはそういう人達とは違う姿勢が見えるから、支持を集めるのではないだろうか。
私自身小泉さんは完璧な人だと思わないけれど、そういう部分は好感が持てる。
現実は、小泉さんが勝ったところで何も変わらないかも知れないし、悪くなるかもしれない。でも、自分が投票したいと思うのはそういう信念が見える人にしたいと思うのは自然だろう。

政治家なら、信念を持ってしかるべきだし自分が正しいと思う事を実行するのが当然だと思う。
それが、単に利権の調整だったり支持率を気にして人気取りの発言をしたりするだけでは何も変わらない。
郵政民営化が良いか悪いかはやって見なければわからないと思う。
だからこそやる前に出来るだけそういう問題に対して議論する訳だし、悪ければすぐに修正すればいい。
その辺の必死さというか真剣さと言うかそう言うものが全く見られないから、心配になってしまう。
国会議員達は本当に国や国民のことを考えて行動しているのだろうかと。

先日までワイドショーを賑わしていた、議院夫婦の問題にしても、自身の考えがはっきりしていれば、何も迷う必要は無い。迷った時点でその政治家の信念を疑ってしまう。

小泉さんは勝てなくとも、自民党がつぶれればそれでいいのかも・・・。



08/09 構造

先日、友人からショッキングな話を聞いた。
ある構造家の話。
超がつくほど有名な人なのだが、その方が設計した建築に問題が発生したらしい。
それが、建築としては決定的な現象に陥った。詳細はあえて述べませんが・・・。

最近のメディアも構造主義的な作品が多かったりするのですが、根本的な建築の存在感が希薄だったりします。
確かに構造的な表現が建築の可能性を拡張させる事に対して、何の異論もありません。
しかし、それによって建築の評価基準が変化するわけではないでしょう。
なにか安易な流れになっているような気がしてなりません。

私も少なからず、構造家と仕事をしているし関わっているのだけれども、建築としての意味や価値を吟味した上で案を練り上げないといけないと感じます。

確認申請に時間がかかるぐらいは、なんの問題も無いですが出来上がった建築に問題があるのはやはり何かを間違っているのだと思います。
構造はそれだけでデザインテーマになりうるものですが、その強烈さ故に溺れないようにしたいものです。

あえて、解りづらい表現で申し訳ないです・・・。



08/08 ヒロシマとナガサキ

先日、原爆に関する特番を何本か見た。
それは、戦後60年という節目もあり各局様々な側面から、「あの日」の出来事を克明に伝えようと工夫を凝らしている。
ある番組で、実際に開発に携わったというアメリカの科学者が初めて広島を訪れ、そこで被爆した2名の男女と対談をするという画期的な企画を見た。
有名な原爆のキノコ雲を上空で撮影した映像は、その科学者のものだったらしい。
実際に、投下した輸送機にその科学者も乗っていたという事だ。
そして、対談でアメリカ人の認識と被爆した人々の認識に決定的な違いが浮き彫りになっていた。
それは、科学者曰く「あの日」の出来事は間違っていないという事だ。
原爆投下を引き起こしたのは、日本軍の真珠湾攻撃であり、そこで多くのアメリカ人が亡くなった。それは、その科学者の友人達も含まれていた。
被爆者である日本人は、謝罪を求めたが「謝罪をするのはむしろあなたの方だ」と突き放されてしまった。
これには、少し驚きと納得があった。
こういう考え方をしている限り、戦争はなくならないし、核の廃絶は難しいだろう。

科学者は、「爆撃で死ぬのも原爆で死ぬのも、死ぬ事に変わらない。」と語っていた。
しかし、それは街ごと吹き飛ばす事と軍人同士が戦う事は同じだという事なのか。
グローバルスタンダードといっておきながら、所詮自国民のことしか考えていないとしか思えない。

その被爆者の日本人は、戦争の責任に対する謝罪を求めた訳ではないと思う。
それは、中国に対する日本の立場のように個人で負えるものではない。
そこで、求めた謝罪とは恐らく「街を一瞬にして壊滅させた」事に対する謝罪ではないのか。その必要もないのに・・・。

原爆を使わずに日本を降伏させる方法もあったらしい。
そこでは、天皇制の存続をすれば可能だったと報じていた。
原爆投下は、消極的な選択ではなく積極的な選択に思える。
その後の調査で、アメリカ軍は被爆した人々のデータを集めていたが、治療は一切しなかったそうだ。

最後にピースセンターに灯されている核廃絶を求める火について、その科学者が「核がなくなる前にガス欠になるだろう」と皮肉たっぷりだった。

 


館林
建築行脚の記録-10
群馬県立館林美術館 設計は高橋てい一/第一工房。
これは雑誌で見た時から、美しくて一度見てみたかった建築である。
しかし、何か違和感があると思っていたら回廊に面する池に水が入っていなかった。
受付でその事を聞いてみると、夏場は水が汚れるらしく、ここ数年は水が入っていないとの事。
洗浄するのが大変だそうで、水庭ならぬ石庭となっていた。
水庭の方が美しい事を強調しておいたのだが、その後変化は無いのだろうか。
あの水庭は、さぞ美しいだろうと想像しながら展示を見ていた。

展示内容も非常に興味深いものがあり、楽しめた。
図書コーナーもあったのだが、エントランスに直結しているので、もう少し区画されていれば良いと思うが・・・。
高橋氏は以前コンペの審査会の会場でお会いした事がある。
まぁ会ったというより、遠巻に見かけたというのが正しいが。
その時は、パワフルな人だなぁという感じだった。
建築のデザインとしては非常に静かで寡黙だが、それを創るためにはパワフルさが必要という事だ。
レストランのケーキはかわいらしくデザインされていて美味しかった。
心残りはフランソワ・ポンポンの常設展示が見られなかった事でしょうか・・・。





08/04 フォレスト益子

建築行脚の記録-9
フォレスト益子 設計は内藤廣氏。
この日は今年最初の夏日で、暑い日だった。
宿泊施設とレストラン、無料の休憩所と展示室からなる複合施設。
それぞれの規模が小さいので、非常に親しみやすいスケール感を持っている。
内藤さんは屋根にこだわりがあると思うが、それは天井にも表れている。
美しい屋根には美しい天井がある。

この建築に限らず、内藤さんの創るモノは一見すると普通に見える。
しかし、それは普通を突き詰めた結果、全く違う質に変化しているように見える。
普通であろうとしているが普通ではいられないような・・・。
建築家が創るのだから当然と言えば当然だが、一般的には普通であろうとすると本当に普通で終わる。(笑)
この建築を見ていても非常に穏やかで、優しい。
しかし、ディテールは非常に詰められているし、外観の見え方はかなり気を配っているようだ。
隈さんとは、違う意味で日本的な空間だと感じた。





08/02 川/フィルター

建築行脚の記録−8
川/フィルター 設計は隈研吾氏。
半ば隈さんシリーズになっていますが・・・。
福島県に初めて行きました。
街があまりに大きくて少々驚きました。
ビッグパレットふくしまも見に行きましたが、あまり好きではなかったので
ものの10分くらいで立ち去ってしまいました。
だから、記録が無い事が記録とでも言いますか・・・。
コメントがしづらい建築でした。

話がそれましたが、隈氏のルーバー作品の代表作です。
このルーバーは、多分学会賞を取った能舞台でも使用されていたので、その頃から
その片鱗を見せていたと思います。
てっきり木造だと思い込んでいましたが、ほとんどがRC造で地中に埋まっているような建築でした。
後に全てを埋めてしまう作品も創っていますが、その形式にも繋がるようでした。
駐車場から見ると本当に平屋のようで、ガラス面にわざわざ地下に席がある事をでかでかと貼付けて主張していました。
この形状を見て帰る人もいるのでしょうか。
商業施設を見ていつも思うのは、そういった貼り紙に関してですが、日本の商店はムダな貼り紙が本当に多いと感じます。
その点、ヨーロッパは規制も多いのでしょうが、ほっといても誰も貼り紙をしない雰囲気があります。
さて、ここはそば屋さんなので早速店内に入りました。
地下の方が客席は大きいようで、川に面して客席が並んでいるのですが、外部テラスの客席もあるのですが、気持ち良さそうだったので店員のおばさんに外で食べたいこと伝えると、「外は暑いからやめた方が良い」と言われました。
うーん。でもちょっとぐらい暑くても川のそばでそばを食べたい!
と思ったので、半ば強引に外で注文しました。
確かにその日は、暑い日でそれなりに暑かったが、川の水の音と涼風がとっても気持ちの良いものだった。
これは、外の方が絶対良い。と思いましたが、どうやらメンテナンスをさぼっているらしく、上部の床(地階の天井)からゴミが落ちてくる場合があるらしい。貼り紙がしてあった。
よくメンテナンスフリーの家なんて言うのを見かけるがそれは間違いだと思う。
建築に限らず、人の手がかからないモノは確実に朽ちる。
日本の国宝級のお寺だって、メンテをさぼっていたらとうの昔に朽ち果てているに違いない。
逆を言えば、簡単に朽ちてしまうものだって、丁寧にメンテをしてやれば長持ちする。
それは決して、最新技術を使って特殊な塗料を塗ったり、特殊な素材を使用する事ではなく、単に
気になったら掃除をする程度の事で十分である。
現に、お寺は毎日雑巾がけするだけで、あんなに見事な漆黒の床になるのである。
木の家は人に優しいというが、人がモノにあるいは建築に優しくしても良いような気がする。
建築が単なるメンテフリーでクレームレスな箱であったなら、建築家の必要性は少ない。
それだけ、建築家の必要性も世に問われているとも言えるのだろう。

そばの素材にこだわりが見えて、味もなかなかでした。
ただ、もう少し建築をきれいに使ってもらえたらよいなぁと感じました。





08/01 石の美術館

建築行脚の記録-7
石の美術館 設計は隈研吾氏。
この建築も二度目の訪問。
小さな美術館だが建築的には非常に興味深い。
スケールの小さな空間が水を媒介にして緩やかに繋がっている感じが心地よい。
建築というよりランドスケープのような感じ。

コストが一番苦労したそうだが、そんなように見えないのが凄い。
隈さんは色々な素材を使うので節操がないように見えるが、こういう手法が可能なのは
コストコントロールの上手さのせいかも知れない。





07/29 広重


建築行脚の記録-6
馬頭町広重美術館 設計は隈研吾氏。
こちらは、二度目の訪問で以前は3年前。
以前よりも屋根のルーバーの色が退色してきて、良い感じ。
所々、苔らしきものが出てきてますます日本建築に近寄っている。
団体客がいたりして、結構にぎわっていた。
展示自体に物量が無いので、滞在時間は長くないようだが
庭を眺めているだけで、気持ちがいい。
美術館全体をルーバーで覆う。
言葉にしてしまうと、これだけを徹底した建築である。
もう少し詳しくみると、ルーバーは全て天然木を使う、となる。
極めてシンプルである。
しかし、それを徹底するには並大抵の努力では実現しない。
建築は素材を限定した時点で、とたんに高度な技術が要求される。
それは、建築の素材がそれぞれの性能によって細かく使い分けされているからだ。
それを、知る事や知っている事が技術者=プロの役割だが、それを超えるのは建築家しかいない。
この建築はあたかもルーバーだけで創られているように創っている。
そのイメージがなければ、最終的な建築がこのようなモノにはなりえない。
駐車場の取り方が建築のクオリティに対して、安易な気がするが多分それはコストの関係だと思う。
建築にコストをかけたという訳ではなく、コストパフォーマンスが建築の方があまりに大きすぎるためにそのように感じるのだと言う事だ。
本来なら駐車場は緑で覆ってしまいたいのだと思う。
そう言う意味で、外観は裏の竹林からの方が美しいし、雑誌にもそちらの外観しか載っていない。
これは、広重にぴったりだね、という家族の言葉が心に響いた。

 

07/26 ota museum

建築行脚の記録-5
ota museum 設計は小島一浩/C+A。
外観を眺めただけだが、非常に楽しそうな建築だ。
プライベートな美術館という事だが、是非空間体験をしてみたい。
特に2階の屋内のような外部空間は魅力的だ。
技術的な観点で見ると、外部の防水仕様やキャンティの構造形式など、不安になる要素を持っているが、それだけにダイナミックな構成が美しい。
客間に乳白フィルムが貼られていたので、3階の浮遊感が弱められていたのが残念。

いつも思うのだが、事務所に戻って建築雑誌を読み返してみると最初の印象と随分違う事に気づく。大抵、建築雑誌を見てその建築に対して第一印象を持つのだが、実際に現地に訪れると同じ印象にはなかなかならない。これは、人間に会うのと同じで写真だけでは判断できない。
何となくその立ち振る舞いと言うか、佇み方と言うかそういうものによって感じ方というのは全く違うモノになるのだろう。

さらに、良いモノは何度訪れても新しい発見がある。
その発見自体は、単純で何でもない事のように見えるかも知れないし、実際に対した事でないこともあるが、それに気がつく事が重要だ。
時間は万物に平等に与えられているし、同じものはない。
そこで、共有された時間は特有のものだから、次に訪れたときのモノとは別のものだと思う。

だから、新しい建築を見るのも良いが、以前見た建築を見るのも興味深い。
理論的には、どんどん見たい建築が増えていく(笑)。
しかし、それも縁がないとなかなか見られないのは、人の出会いと同じだとつくづく思います。





07/25 gunma

建築行脚の記録-4
ぐんま国際アカデミー。 設計は宇野享/CAn+小島一浩・赤松佳珠子/CAt。
この建築は、文句なしに良かった。
見学は出来ないようだったのだが、たまたまいらっしゃった先生の好意で案内して頂いた。
感謝しております。
街並に埋もれるように低い軒先で囲まれながら、明らかに周辺とは違う、ある種異様なオーラを感じた。
なんでもないように見えるが、それは非常によく考えられたものだと言う事が、外観を見ただけで感じられた。
内部空間は、想像以上で子供たちのスケールに呼応するように、慎重に作られているのが良くわかる。
中庭は、非常に心地よい空間だった。
プランは、非常に外部に対して閉鎖的であるがそれを感じさせない。
昨今の事件が反映されているのは当然であるが、オープンスクールの祖を築いた方達なので、その配慮に深度がうかがえる。

ちょうど、初めての学校主宰のお祭りの前日だったそうで、準備で内部空間がにぎやかだったせいで、愛されている建築独特の瑞々しい雰囲気を漂わせており活気があった。
私自身、子を持つ親としてこの学校で学んでほしいと単純に思ったし、子供自身もそう感じたようだ。
「なんだかとっても楽しそう」という子供の言葉が、なにより真実を語っているように思う。

最後に、案内して頂いた先生へ
お忙しい中、丁寧に説明して頂きありがとうございました。




07/22 nakazato

建築行脚の記録-3
神流町中里合同庁舎+中学校体育館 設計は古谷誠章+nasca。
周辺の環境とある意味異質な空間性を持ち込む事で、周辺環境に良い影響を及ぼそうとしているのが良くわかる。私はこういう建築手法に非常に共感が持てる。
周辺環境との調和は、その環境が良いモノか悪いモノかによって当然その調和の程度が変化する。
ただ単に埋没するのが、良い事ではない。
長野駅前の守屋ビルにしても、調和する手法として勾配屋根+瓦を用いているが、それ以外は至極現代的な手法を用いている。そのバランスが大切。
それが、今現在の状況にあっていても数年後に保てなくなるようではいただけない。
その射程距離が長ければ長いほど、存在感は増すものだと思う。
その意味では、この庁舎はかなり周辺とは異質かもしれない。
でも、それはかなりの射程距離を見込めば全く自然な事だ。
この建築によって、周辺も少しは考えるだろう。そうなれば、全体の活性化に繋がる。
土曜日だったので、庁舎には誰もいないようだったが、これだけ開放性があれば中に入らずとも見学した気になってしまう(笑)。
建築は形だけでは判断できない。その建ち方も重要だ。
そういう意味では、現地に訪れないとこんな気持ちになる事は難しいと思う。
だからこそ、建築行脚はおもしろいのだ。





onishi
建築行脚の記録-2
鬼石の多目的ホール 妹島和代氏の設計です。
これも、コンペによる作品です。コンペ案とはプランが変わっていますが、妹島氏特有の透明感でいっぱいの建築です。
ここでも気になる事が・・・。
写真を見てわかるでしょうか。なにやら腰の当たりに余計な線が一本通っています。
最初に見たときにものすごい違和感がありました。しかもその線はよく見るとちょっとぐにゃぐにゃ曲がっているので緊張感を著しく奪っています。
これも運営側の配慮なのでしょうが、衝突防止の目印のようです。
おそらくこれも、設計者には黙って取り付け(貼付け)られたのでしょう。
それが、必要であればキチンとデザインされるべきなのに・・・。
建築は視覚芸術でもあるので、視覚的な影響をものすごく繊細に扱います。
だから、サッシの見附寸法を削るために努力をしたり、線を少なくするために莫大なエネルギーを費やしたりするのです。
それを、緊張感の無いプロポーションを無視したテープでガラス面を仕切ってしまう、あの感覚は・・・。
もっと役場は使い方を指導すべきです。

妹島氏の建築はすでに世界に認知されているので、世界中からあの建築を見学に大勢来るでしょう。その事を運営側は認識があるのでしょうか。
確かに、小さな町のための施設でしかないかもしれないが、それが世界に発信しているものだと解っているのと、無視しているのでは、全く違うモノになってしまう。
そして、もしも外国人であれば日本はそういう国だと誤解(理解?)して帰国するでしょう。

以前にル・コルビュジエ設計のマルセイユにあるユニテを見に訪れた時の事。
そのロビーには、コルビュジエに関する資料が陳列してあったのに驚いた。
そこからは、建築家をたたえるオーラが満ちあふれていた。
そして、そこに住んでいる人たちがすごく生き生きしていて、建築がそれに応えるように瑞瑞しくて非常に感動した。
それは、建築に感動した部分も多分にあったのだが、それを本当に大切に愛している事が伝わってきたからのように思えてならない。

建築は人々に愛されなければ、ただの物質に成り下がる。
建築は自身で輝く事が出来ない月のようだ。

本当の意味での町の活性化は、その人々が生き生きしていないと達成できるものではない。
良い建築はそれを認める人々に愛されてこそ、良い建築でいられる。
そして、そういう人々を尊敬したいと思う所から、町は町としての価値を帯びていくのではないだろうか。
そう言う意味では、現代建築はその土地の感性を簡単に映し出してくれる。
それが、現代建築の価値でもあり、現代に生きる私たちのテーマでもあると思う。
豊かな国とは、そういう感性を持っている国であり集まりであると思う。
それは、決してお金で買えるものではない。

なんだか、運営側の批判ばかりになってしまったが、建築の中身の話。
ランドスケープと建築の境界線が非常に曖昧で当初のテーマである「屋内広場」に対する妹島さんの解答が非常に心地よかった。
プランもそうなのですが、微妙な起伏を使って、単純な平屋の建築を多彩にコントロールしているのには感動しました。
恐らくこのうねりは、かなりスタディされていると感じました。
周囲には、小さな住宅が沢山ありましたが、それをうまく取り込むように、かといって埋没しないようなおおらかさを全面に出しているようです。
どこかのサイトで、「ちゃっちくて、すぐぼろぼろになりそう」という意見がありましたが、私にはそうは見えませんでした。最近の妹島さんの建築はそういう技術的な問題を着実に克服しているように思います。

一般的に軽いモノは弱く重いモノは強く見える。だからこそ、建築家は視覚に非常にこだわる。しかし、心に感じるのは視覚的な事だけではないと思う。
伊東さんはアルミのストラクチャーを実現したが、それは軽く見える事と本当に軽い事の差異を知っているからだ。
だから、ある意味そのサイトの指摘は正しい。ただ、「ぼろぼろ」になりそうなのに建築として成立している所に緊張感が生まれる。
「ぼろぼろ」にならないように作る事は容易い。しかし、それが正しい事かどうかは怪しい。
だからこそ、そこに建築家が思考を巡らせる意味が生まれる。

妹島さんの作品である飯田市の資料館で、案内してくれたおじさんが
「この建築は、海外からも見に来るぐらいなんだよ」
と誇らしげに語ってくれたあの笑顔を思い出しました。





07/22 tomihiro

建築行脚の記録。
まずは富広美術館。設計はヨコミゾマコト氏。
これは、コンペの時から注目してました。
円形の展示室が連続する空間は興味深いものでした。
屋根を見られる場所が無いので、外観であのかわいらしい水玉模様が見られないのが残念。
てっきり、前の美術館も残っているのかと思ったのですが、すっかり無くなっていました。
当初の計画では、駐車場は湖に沿って計画される筈だったようですが、全面の山を切り崩して駐車場を設けている点は疑問です。
内部の空間は、予想以上に多様な様相を呈していて、鏡の様な開口部は不思議な感覚を与えてくれます。
でも、メインの展示空間に空調機が増設されていたのに驚きました。
運営側も試行錯誤しているのでしょうが、あんなに安易に空調を付加している美術館は初めて見ました。おそらく「暑い」という意見があったのでしょうが、私が来館した時は寒すぎていられないくらいでした。まして、自然を愛する富広さんの絵をそんな状態で見る事が良い事なのか疑問です。あの状態は、ヨコミゾさんは知らないのだと思います。
設計段階で、かなりの密度で空調計画を設計している筈です。
あのような状況は、たいてい建築家は蚊帳の外で勝手に改変されるのは、運営側に能力が無いと言わざるを得ません。せっかくの建築が台無しです。

もう一つ気になったところは、順路が設定されている事です。コンセプトでは均質ではない、多様性を表現しているのだから、順路を指定する事は、空間性が著しく制限されて、非常に不自由な感じがします。円形の平面から、様々な経路で展示を見られるからこそ円形である事の意味が強化されるのであって、あれでは一般的なホワイトキューブの方がよっぽど心地よいです。
運営側はもっと建築の意味を考えなければいけないと思います。
富広さんの詩画は素晴らしいですが、建築があまりにもリンクされていないように感じます。

同行していた、私の家族が「富広さんの絵と何となくそぐわない」と言われたのは
私にとっては、ショッキングでした。
あの建築は現代建築としてかなり高いレベルで新たな空間性を獲得していると思います。
しかし、富広美術館としてのあり方はどうなんだろうか、と考えさせられました。
コンペ作品を編集した本があったので、試しに宮本さんの案を家族に見せたところ
「こっちの方が良いんじゃない」と言われました。
その案は、美術館としては従来の常識を覆す様な案で、散策路の様なものです。
それは最終選考まで残り、審査員の先生達も考えさせられたようですが、最終的には実現しませんでした。
ある意味、あの案はそういう「富広美術館」としてのあり方に忠実だったのだと気づかされました。
これは、決して批判ではなく、建築を志す者としての無いものねだりなのかも知れません。

でも、色んな意味でこの建築は印象に残るものになりました。
ありがとうヨコミゾさん!





07/19 本物

連休を利用して、国内建築行脚に行ってきました。
久しぶりにじっくり建築を感じてきた上で思った事。
本当に良いモノとは何か。
常に考えている事だけれど、今回の小旅行で一つの結論にたどり着いた。

それは、そう簡単にわかるものではない

という事。なんだか、結論を放棄してしまったような結論だけれども・・・。

人間に例えれば、ひとは見かけによらない、とよく言いますが私はずっと、見かけと中身が単に違うもんだと認識していました。
でもそれは、すこしニュアンスが違ってて人間の本質を見抜くのは難しい事で、表面的な情報ではなかなか解らない、という事だと思うのです。
だから、単に違うのではなく、その表面もその人の情報ではあるけれど、もっと奥深い所にも本質は隠れているという事を簡単に言うと、「見かけによらない」になると思います。
能ある鷹は爪を隠す、というのもありますが、以前の私の認識は戦略的に隠すようなイメージがあって、能があるから、それを隠す事によってさらにその能を拡張させているのかと思っていました。
でも、これもすこし違う気がします。
それは、ここでいう能は、実は自分でもそのパワーに気がついていなくて、ただ好きだからとか何となくその能を使っていて、周囲の人間も、本人がそんな感じだからあまりたいそうな事だとは気づかずに触れているんだけれども、何かのきっかけでその能に気がつくという事を表しているのだと思います。

今回は、2度目の訪問のものもありました。
当然、何年か経っているけれどもやはりそこでは、新鮮な発見や感動がありました。

能ある建築(家)は、その良さまでも隠してしまう。

建築はまだまだ奥が深い。




07/15 good design award

祝グッドデザイン賞1次審査通過!
なんとか残ったようです。
これから2次審査の準備が待っていますが、とりあえずホッとしました。

どこまで行けるか楽しみです。
サイトで一般公開もするそうなので、興味のある方はそちらも見てください。
公開は8月からです。

さて、今日はコンペについて考えてみました。
最近はインターネットコンペで、住宅を建てるクライアントも多くなってきました。
以前は私も、せっせと応募をしていたのですが、最近はご無沙汰になってしまいました。
また、応募しようと計画中なのですが、ふとサイトを眺めていて感じた事。

以前は、私自身、建築として優れた提案が一等を取るものだと単純に考えていたように思います。
でも、実際は全く違う事に最近になってようやく悟りました。(笑)
それは、クライアントにとって良いか悪いかであって、公共性はある意味考えられていないのではないか、という事です。
未だに住宅の公共性は、一般的に認められていないのではと疑ってしまうほど、審査基準がバラバラです。
サイトの主催者にも問題があるのでしょうが、建築家たちの無料奉仕をああいう形で搾取する事に
腹立たしささえ感じます。
ハウスメーカーの家に住みたい人が、設計コンペをやった所でメーカーのような住宅が建つだけであって、そんな人は、メーカーに頼むべきであり、そんな人のコンペをサイト主催者は開くべきではありません。
全てがそうとは言えないですが・・・。

やっぱり、案を選ぶというより人を選ぶコンペの方が、イイモノが出来る可能性があるような気がします。是非、コンペ主催者はそのようなアドバイスをした方が良いと思います。
そう言う意味では、書類で落とされる時点で、ダメということでしょう。
ちなみに、過去面接までたどり着いたためしがありません。
また、頑張ってみようか・・・。




07/13 占い

最近は占いが流行していて、1兆円産業とも言われているらしい。
目に見えないモノにお金を払う事は、決して悪い事ではないが産業と言われると・・・。
我々の仕事もある意味目に見えないモノを売っていると言えるかもしれない。
しかし、売る事に意識がいってしまうと、真実を見失う。
売る事は大事な事だが、その能力(目に見えないモノ)を研ぎすます事の方がもっと大事だ。

最近は携帯サイトで占いを”売っている”そうで、人気になれば一日に3億!の売り上げになる人もいるらしい。(ホントかウソか知らないが)
それだけ、世の中が不透明になっているのだろうか。
現代建築も確かに心なしか純粋な透明度よりも不透明さを求めている傾向があるような・・・。

私の未来観は。

そもそも、未来というモノは不透明でだからこそ、自らの意思と能力で光を見つけられる。
明るい所では、光っている事さえ気がつかない。
暗い所で、一生懸命針の穴より小さいような光をめざして歩いているような感じ。

そう言う意味で、占いは一種の自己暗示をしているともとれる。
人間は、創造以上でも以下でもない。その人の意識が現実をコントロールしている。
文明が発達して、過去のSF映画のような世界に近づいていくのもイメージを共有しているからだと私は思う。
人の意識は、それほどに偉大なモノなのだ。
しかし、イメージできない事は実現する事は出来ない。
スポーツ選手がイメージトレーニングをするのは、そのためだ。
だから、占いを信じるのも疑うのもイメージできるならばそれが真実。

 

07/12 常識

建築は現代の生活に密着しているから、なかなかその存在を明確に定義するのは難しいと思う。
身の回りのあらゆる所に既に存在しているものだから、それがイイモノかワルイモノか良くわからなかったりする。

シックハウスの問題はアレルギー反応であるが、自然素材であればそれが起こらないかと言えば、そうでは無い人もいる。常識とは常に、細かい問題を見えなくし、簡略化する事で世の中に染み渡っていく。
いつの時代も常識が正しいとは限らないし、次の時代に簡単に否定されるのも日常茶飯事である。
だから、常にゼロから思考を始める事は時間のかかる事だが、怠ってはいけない。
常に常識を疑う姿勢を持っていなければ、簡単に飲み込まれてしまう。
全て常識で整理で出来るほど世の中は単純ではない。
複雑な問題が単純な方法で解決する事が多々あるが、だからといって問題自体が単純な訳ではない。

ホルムアルデヒドは確かに人間に有害であるが、それが諸悪の根源ではない。
人工的な薬品が使われてなければ良いのではなく、その使い方に問題がある。
接着する部材があれば、接着するための性能を確保するために、様々な研究をするだろう。
それが、ある物質を使えば接着する性能を満たす事が解ればそれを多用する。
その物質がなんであろうと、化学薬品には違いが無い。
しかし、その場合接着剤の内容は吟味するかもしれないが、接着が必要かどうかはあまり議論されない。まず、接着ありきである。
もともと、接着剤は手間を省くために開発されたから、手間をかける昔の工法ははじめから忘れ去られている。

手間を省く事を新しい「商品」かのように宣伝して、うまく市場に乗せられればそれが常識となる。
世の中の商品は皆そうして生まれている。
だから、その本質を見抜くには本当の良さとはなんなのかを考えなければならない。
企業の論理ではなく、個人の、そして人間の論理として。


07/11 肉声

先日の朗読会の続き。
朗読会の内容についても、印象的でした。
そこでは、通常の朗読の他に創作オペラ紙芝居というのをやっていました。
それは、男性のオペラ歌手が自ら一人何役もこなしながら、紙芝居をやるという物です。
紙芝居もオリジナルらしく、紙芝居の額もオペラ劇場の様な書き割りが付いている凝りようでした。
そこで、最も感動的だったのは、マイクを使わずに発生する圧倒的な声量です。
その肉声の瑞々しさは、その場に居ないと体験出来ない素晴らしい物でした。
オペラに関わらず、生の声や肉声を体で感じる素晴らしさは、古代の人も、現代に生きる我々も共通の感覚で知っていると感じました。
そして、その肉声の優れた者のみが壇上に上がれるという名誉も。
現代は、拡声器という技術で真に優れた肉声を持たない人も壇上に上がっている様な気がしました。
会場は広くはなかったのですが、この肉声をオペラ劇場で聞いてみたいと、単純に思いました。
それは、単なる好奇心かもしれないけれど、シンプルにそういう気持ちにさせる人の能力と自分の好奇心がとても心地よく感じました。

以前より、オペラに興味があったのですが、よりいっそう刺激されてしまいました。
是非、松本の芸術館で聞いてみたい・・・。


07/09 風景

先日、とある朗読会に出席しました。その会場が「守屋第一ビル」。
実は、会場に到着するまでそこで行う事は知らずに連れてこられてビックリ。
導かれるように、林雅子ワールドへいざなわれたのだった・・・(笑)
とは言え、42年の月日を経た建築は、周辺環境の変化に飲み込まれるように建っている。
内部には透明なアクリル模型と竣工当時の美しい姿がノスタルジックに写真に収まっていた。
竣工当初は、この建築よりも高いものは無く、2階建ての勾配屋根に瓦を乗せた建物が延々と連なる環境であったらしい。
その写真を見て、驚きを隠せなかった。
42年前とは言え、長野の中心部があれほどの瓦屋根で覆われていたのか・・・。
「守屋第一ビル」では、その瓦屋根をモチーフにコンクリートのピロティと融合したデザインで後に雅子風と呼ばれる原点でもある。しかし、そのモチーフ自身が消え去り、近代を象徴していたコンクリート打放しと共に、過去の瓦屋根の面影を残す唯一の存在になってしまった。

風景とは、人々の記憶である。もはや林雅子の瓦屋根を見ても、過去の風景を見た者でなければ、あの延々と続く低層の瓦屋根をイメージする事は出来ない。
それほどに、日本の風景はうつろいやすくはかないものなのか・・・

私は、以前より周辺環境の一つとして隣の建物のデザインなどを含める事に対する疑問を持っていた。
もちろん公共建築や歴史的建築ならば話は別だが、いつ取り壊されるか分からないような商店建築や住宅をモチーフにデザインする事にどれほどの意味があるのか。
前述の「守屋第一ビル」は勾配屋根と瓦屋根で存在感を示しているのではなく、明らかにあのピロティのボイドによってアイデンティティを確保している。
コンクリートをツタで覆ってしまうのは、コンクリートが人々の記憶に刺激が強すぎるからという指摘があるらしいが、たとえそれがコンクリート打放しだと認識できなくても、あのピロティだけは消え去る事は無い。

かつて、「門構えのあるオフィスビル」として発表されたようだが、オフィスビルは時代とともに高層化し、モニュメンタルだった門構えを飲み込む勢いで増殖していったが、唯一コンセプチャルな門がこれからも残され時代を受け継いでゆくと思う。
建築に必要なのは、この時代を超越するコンセプトが存在するかどうかだけが、生命線である。
どれほどのデザインの強度を与えられるか。
それが、建築家が建築に込める事が出来る唯一の仕事である。



07/08 松本

先日、松本に行く機会があったので、散策してきました。
松本城の近くの川沿いの通りを開発しているらしく、非常に気持ちの良い空間に出会えました。
現在の松本の力強さを感じます。
業界の仕事量にしても、圧倒的に松本の方が元気が良いみたいですが、それよりもデザイン密度の高さに驚きました。
長野も頑張らないと、恥ずかしくて県庁所在地だなんて言えません・・・。

その通りは、再開発で建築自体も新しいものが多かったのですが、川に繋がる親水空間として非常に気持ちの良い計画で好感を持てました。
ただ、ノスタルジックな空間で良いという反面、もう少し現代性というか新たな親水空間としての提案もあってもいいかなというのも感じました。
ただ、現在の長野の状況を考えるとそれすらも、非常に贅沢な悩みだと思います。
善光寺周辺は、盛んに工事をしているようなので少しは元気があるようですが・・・。

街並は、一朝一夕につくられるモノではない事は言うまでもないけれど、そこに流れる精神性はなにかブレイクスルーが発生しない事には変化していかないと感じます。
建物の更新はしていても、そこで感じるのはその精神性で、大きく言うとそれが街並を感じる事かなと、最近は思います。


07/07 光

建築において、光というテーマは魅力的で興味は尽きない。
さて、今回は光は光でも、人工的な光について。
いわゆる「照明」のことであるが、土木的な「光害」があるのは前回の”スローな夜”で知ったのだが
建築的な光害も少なからずあるように思う。
かつての日本家屋には、間違いなく闇が存在していた。それは、悪い意味ではなく光と対をなす概念として。
しかし、人工照明が導入されるようになって、その闇は忌み嫌われるようになり消費文化にともなって明るくする事が近代化だといわんばかりにことごとく闇をかき消していった。
行き着く所は、コンビニ化。
夜中に煌々と蛍光灯の明かりを放っている。

夜、宇宙から日本を見ると国土がはっきりと見えるくらい真っ白に光っているそうだ。
夜があるから昼があるように、光と闇はそれぞれに対の概念である。
全てを満たす輝きの向うに何があるのか。
闇が無ければ光は認識できない。

私の建築には、かつての日本家屋のような闇は無い。
自然の光を満たした副作用としての闇の無さである。
照明は極力付けていないので、夜は一般的な住宅よりも「数値的」に暗い。
しかし、だからといって闇に満たされるわけでもないのが、都市住宅のつらい所。
周囲に土木的な光害に溢れているので、住宅の照明を消しても十分に明るい。
夜景の写真が行灯のようだと言われた事があるが、それは照明の光が弱いせいもあるかもしれない。
行灯住宅。

現状の私は建築に自然光を満たす事で精一杯であったが、一方で闇に満たされた空間に憧れもある。
闇をテーマに建築を創造してみたいと密かに夢見ている。
闇の建築礼讃。

 

07/06 特殊性

最近、竣工した住宅に関してよく言われる事について考えてみた。
この住宅は、一般的に店舗かあるいは事務所みたいと表現される。
一言でいえば、住宅らしくない。
では、住宅らしさとは何か。
恐らくそれは、形の問題に繋がっている気がする。
つまり、家型をしていない。家型が住まいを連想させるのは容易いが、家型を採用する事で
住宅のように振る舞っている建築も少なくない。
ハウスメーカーの建てる家は、ほとんどが勾配屋根を持つので家型の変形であるが
一般的にはこれが住宅らしさか・・・。

しかし、現代の住宅における位置づけは、間違いなく変化しており単なる生産の場と切り離された
消費の場としての建築という場ではなくなってきている。
それは、東京だけでなく長野においても顕著だと思う。
つまり、癒しとしての団らん空間等の単一の用途における建築ではなくなってきているのだ。
だから、そこでは常に事務所になる可能性や店舗になる可能性をもっていた方がより柔軟だと言えるしその方が自然ではないだろうか。
終身雇用制度が崩壊しかかっている現代で、これから過去のような経済に戻る事は考えられない。
景気が良くなっても、同じ位置には戻れない。

上記の住宅は、商業地域に建てられている事を考えても、その可能性が高い。
そのような場で住宅らしい建築を建てる事の方が、私にとって不自然きわまりない。

特殊解かどうかは単体では把握できない。
建築は、常に環境と時代に左右されうるものだ。
それほどに、建築は変化している




07/05 二重性

先日、小さな集まりがあり、話をする機会があった。
そこでは、建築に対する知識もばらばらな集まりなので、どのように話すか悩んでいたが
その場の流れに任せる形で、話してみた。
そうすると、私が考えている以上に、建築というテーマは身近な存在であり、皆それぞれに思う所があったりして、非常に興味深かった。
一般的だと思われている事が、そうではなかったり、意外な観点から質疑があったりで、
むしろ、私の方が勉強になったくらいである。
しかし、最近になって建築をテーマにメディアを賑わすようになったとはいえ、その本質の認知度は高くない。
建築家がどういうモノを目指すのかという所をもう少し掘り下げて話したかったのだが、
目の前にある、物質に対する興味の方が先行しているのは、仕方の無い事なのだろう。

建築家の表現者としての作家性と、モノを生み出す生産者としての責任者という、二重性が
誤解を生んでいるように思える。
建築は、そのどちらも内包しているしそれを互いに補強している側面もあるから
どちらかを選択する事は出来ない。

建築家のアイデンティティーの確立は、どこでなし得るのか。
私の目下の課題である。


06/23 スローな夜

先日の週末に、”スローな夜”というイベントに行ってきました。
そこでは、プラネタリウムの中で星を見ながら、オカリナのコンサートを聴くという趣旨でした。
オカリナの奏者は、知る人ぞ知る”さとうともに”先生です。
とても素敵なコンサートで、私も感動してしまいました。

そこで、スローな夜の”スロー”とはなにか。
スローを直訳するとゆっくりとか、遅くとかいう意味でしょう。
では、夜をゆっくり感じさせるものはなんだろうと考えてみると、時間がたっぷりある事と考えてしまいがちですが、そうではない事に気づかされました。

主催者の方が、長野の環境を考える団体(正式名称は忘れました)で光害を一つのテーマとして、長野で見られる星について話されていました。
現代の日本で、闇を感じられる場所は皆無だという事とか、街の明かりが星をかき消している事とか、街灯の作り方を工夫すると星の光を妨げない事とか、なかなか勉強になりました。

プラネタリウムでその状況を再現したりしたのですが、そういう事も大切ですが、本当は
空を見上げる”ゆとり”がある生活ができているかどうか、とか星の瞬きをみて美しいと感じられる感受性を持っていられるかという事が欠かせないと感じました。

私は小学生の頃、星の美しさと宇宙の広大さに憧れていました。
宇宙に行ってみたいと夢見てみたり、望遠鏡で月の観測日記をつけてみたりしました。
あの頃は、毎日夜空をみて夢を膨らませていましたが、最近はそういう事も少なくなってしまいました。仕事の関係上、昼間の空を見上げる事が多くなりました。
でも、宇宙からは、私が目を輝かせて見つめた瞬間に発せられた光が、20数年後を経て私達の目の前に降り注いでいる光が存在するのです。
そう思うと、不思議な気持ちになりました。

きっと、ともに先生のオカリナが気づかせてくれたのだと思います。

光というのは建築の世界になくてはならない存在です。
建築の歴史は、光との関わりの歴史と言っても良いでしょう。
しかし、人口照明によって失ってしまったモノも多々あります。
ゲーテは、死ぬ間際に「もっと光を」という言葉を残していますが、現代に生きていたとしたら
「もっと闇を・・・」と言うかもしれません。

宇宙の闇から放たれる星の輝きの美しさを感じられたとしたら
それは廃墟であろうとなんだろうと、偉大な建築と言えるでしょう。

もっと闇を・・・・そして、偉大な建築を・・・。



06/21 kasou

現代建築家として、家相を真正面に受け止めている人は恐らくいないだろう。
現代の建築計画学においても、恐らく科学的に証明されている部分のみが採用されているにすぎない。実際、学校教育の中で教わった覚えも無い。
一般的に家相という古来の計画学がどれほどの支持があるのかわからないが、私はこの計画学を無視できない。
それは、現実にそう言う事例を知っているからだ。
ただし、それを証明する術がない。
しかし、必ず存在する。それが無視できない理由だ。

ただし、一番良くないのは平面図をどこかの”家相家”に見てもらって、まずい所を指摘する事だ。
そんなことをするなら、その家相家にプランを創ってもらえばいいし、建築家に依頼する必要がない。
真に優れた建築家は、独特の勘で風水や家相のポイントを嗅ぎ取っている。
私は家相の専門家でも風水の専門家でもないが、人の住む場を提供する立場を自覚する上で
先人たちの声に耳を傾けなければならないと考えている。

空間をデザインする事は、気持ちの良さを創る事。



06/20 TVーdesign

バラエティ型ニュースが「編成」を潰すとき

テレビの編成とは、所謂テレビ番組の構成の設計である。
この記事で述べられている事は、まさにデザインの主権が放送局側から視聴者側に移行しつつある事を物語っている。
ホリエモンが言いたかったのは、恐らくこの事であろうし、本人のコメントが「テレビが死ぬ」などと言う過激な表現のために、揚げ足を取るかのごとく批判された。
しかし、ひん死の状態に気がついていないのは、当人だけで、視聴者はテレビが死のうが焼かれようが気にしていない。
問題は、死ぬかどうかではなく、見たいものを提供してくれるのか、くれないのかという事だからである。
提供してくれなければ、見なければ済む事だし、興味があれば見たくなるだろう。
ジャーナリズム論まで発展しかけたが、結局スポンサーの顔色をうかがっているだけである。

どうでも良いが、連日の若貴の兄弟喧嘩は、これ以上報道しない方が良い。



06/19 工事費

「余裕ダイヤ」はJRだけに必要なのか?

このことは、建築業界に携る者として考えなければならない問題だと思う。
この業界でも、価格競争は深刻で中間マージンを削るために試行錯誤をしていると思う。
利益を削ってしまっては、経営が成り立たないだろうから、当然下請けにしわよせがくるだろう。
そのようなときは、設計者も注意しなければ、責任問題に発展してしまう。
業者の選定の際に、最低金額で安易に契約してしまうのは、よほど注意しないと危ない。
適正価格を読み切るのも、設計者の能力ということだ。


06/16 家

家というと、家庭の延長のようで”家族”という言葉につながるようなイメージがある。
住宅というと、ル・コルビュジエの有名な”住宅は住む機械である。”という言葉のように
なにか、機能的な道具のような、イメージをもつ。
その他にも、”住まい”とか”すみか”とか、人間の”巣”の呼び方は、沢山ある。
しかし、どれも限定的で、私が創りたいと思うものとは、それぞれが、少しずつ異なっている。
現代でこそ、建物の用途に名前がつけられ、その行為をいかに効率よく処理できるかを考え、それについての学問もある。設計する人間も、ビルディングタイプによってエキスパートが分かれていたりする。
でも、私の創造したい建築は、建築であって、住宅でもなければ、美術館でもない。その名前=ビルディングタイプは建築である。
だから、人が住み着けば住宅になるし、会社が住み着けばofficeになる。
そんなモノがつくりたいのだなぁと考える今日この頃。


06/14 こだわり

最近の建築雑誌を眺めていると、伊東豊雄氏の建築がどんどん変化していくのが良くわかる。
初期の頃の透明感のある建築から徐々に不透明感のある建築へ移行しているようにも感じられる。
作風の変化が、コルビジェに似てなくもないが、変化しているということは共通のように思える。
それを意識しているかどうかは、別として学生のコンペ作品を見ているとそういう影響が少なからず出ているのが解る。
しかし、言葉が悪いが、騙されてはいけない。もちろん、伊東さん自身はそんなつもりは毛頭ないであろうが、学生や私を含め、建築を志す者たちは、第一線を走るトップランナーが違う方向へ走り出したら、追従したくなる。今まで、透明感を全面に浸透させていた建築家が不透明なモノを創る事で非常に新鮮に見えるし、なによりその建築自体が美しい。伊東さんに言わせれば、それはたまたま不透明に見えるだけだと言いそうだが、新たな領域に踏み出しているのは明らかだ。
それを考えると、同じ年齢の安藤忠雄氏の建築を見てみると、対象的である。
建築家として、どちらが魅力的に写るかは、個人の考え方だが、私は伊東氏の方が魅力的だ。
だからといって、伊東さんのような建築を私が創りたいかと言えば、それはNOだ。
伊東さんは、いろいろなこだわりをもって今まで建築を創ってきたのだろうし、現在もそのこだわりを捨てた訳ではない。単にそのベクトルの方向が変わっただけで、本質は変わっていない。
その本質が変わらずに、維持している事が驚異であり感動を呼ぶ。それは、スタイルを維持する事とは全く違う質を生む。
私は、その姿勢に追従したい。


06/13 教養

「インターネット世界のトップを走るのは日本」

アメリカとの国民性の違いは、なかなかおもしろいなぁと思います。
どこかのブログで、この日本の独特の国民性をしつこく批判するものを見た事があるが
その評者は、日本人らしいのだが外国語が堪能で、日本人の集団意識は間違っている等の
言説を延々と連ねていた。
それはそれで、一つの意見だが、良いか悪いかというのはまた別問題のような気がする。
そこでも、日本のブログの傾向が批判されていたが、それについては、私も納得できる。
ランキングで上位にあるものには、延々と個人の日常が書かれているものが人気だったりするし
あるいは、それが非日常だと言う理由で人気だったりする。
つまり、何かを発信しているようで、発信していないような、そんな感じを受ける。
あからさまに、発信している態度は、嫌われるが、かといって何も発信していないのも・・・。
という感じだろうか。
私自身、何らかのメッセージがあるからこのブログを書いているので、メッセージが無い時は
さすがに書けない。毎日更新する方が、読んでいる方は楽しいのかもしれないが・・・
ある意味、そんな情報はムダのように見えるが、ムダを否定するつもりは無い。
そもそもムダを定義する事は非常に難しい。
ある人にとって、ムダな行為がある人には有益な場合はいくらだって存在する。
少なくとも、私にとってこのブログを書く事は、自分自身との対話の意味が大きい。
自分の言説を投げ出し、それを別な人間として再度取り込んでみる。
それが、ある人にとって有益な情報だったりしたら良いなぁという感じか。
ムダに感じる人が多かったりするかもしれない。

記事の最後に教養についての話が書いてあるが、この事がもっと浸透し、常に個々人が意識を高める事が、日本人の弱点でもある、個の重要性を高める事が出来るような気がする。
個人と集団は、決して2項対立のようなモノではなく、ひとつながりだと思うので。



06/07 分析

分析という作業に意識的になってきた。
私は批評家ではないので、言葉にして発信するほどの術をもたないのだが。
しかし、ただ単に真似をするためだけに観察をしているのは、当然分析ではない。
大げさに言えば、目に見えないモノを観察するのが分析だろうと考えている。
目に見えないから、言葉にするのも難しいような、そんなモノが感じられたら、成功である。
建築は人間のつくるものだから、人間の意思なしには創られない。
あらゆる建築、人工的なモノは全てである。
だから、そこで考えられた全てのプロセスを感じ取れたら、と思うのである。
それが、対話であり、建築を観る価値が生まれる。

先日、たまたま寄った新築の子供用品の店に近代建築のある種の到達点を感じてしまった。
ミースが提唱した均質空間を最も忠実に具現化しているのは、日本だという指摘があるが
それをかいま見るような、見事な均質空間だった。
さすがに、陳列の関係上余計なディテールが多すぎるが、その骨格は美しい。
そう言う均質さを商業的に創れてしまうのが日本の施行技術の高さだろう。
恐らくその均質さは、純粋に経済性に基づくものであるとしても、出来上がった空間には
その均質さが子供用品というファンシーさを売りにしている空間とのズレによる、妙な心地良さがあった。

世の中には、そういう類いのモノが沢山あるように思う。
歴史を見てもそれは同様だと思う。
歴史は、権力が絡んでいる事が多い。
現代も、世の中がイイと思っているモノは、権力があるからかも知れない。


06/03 slow-life

スローライフな仕事

この話いいですねー。
”スロー”の本当の意義をかいま見るような記事だと思います。
以前に、身内がイタリアと取引をしている話を聞いた事があるので納得してしまいました。
ただ、日本的なサービス(指定された商品を指定された納期で発送する)を求めている人もいる事は事実なので、そこの折り合いをつけるのが非常にムヅカシイと思いますが・・・

イタリアの電車なんか寛容というか、ダイヤなんか無いに等しい。
でも、国は立派に機能しているし、いいモノを沢山創りだしたり、天才を生み出したりしている。
都市に世界的な建造物もあるし、歴史もある。
あー、イタリアいきたい。


05/30 社会

社会と自分の位置づけが最近妙に気になってきた。
自分が社会とどのように繋がり、どのように繋げられているのか。
あるいは、社会からどのように捉えられているのか。
社会と言うと、匿名的な一つの団体のようだが、それは紛れもなく、人間の集団である。
それが、地域であったり、国家であったり、する事で大きさの違いがあるが、人間の意識が集まったものである。
それが、時代を創り、歴史をつくってゆくという事なのだが、ミクロ的に遡るとそれは、人と人が出会い、その人がどう見られ、どう見られたいかという事が原点である。
そういう意味で、個人が社会の最小単位でもある。かつては、家庭が最小単位と言われていたが、もはやその家庭像も怪しい。
その個人にいかに思われるかが、自分の社会的な自分像である。
その自分像をいかに多くの人に知ってもらうか、あるいは知らせるかが重要だ。
そして、ある規模を超えるとあっという間に、その認識が広がる。
それには、自分はどう見られているかを知らなければならない。
それも出来るだけたくさんの人に意見を聞かなければ、それは、社会的なものではない。
社会というものの奥深さに気づき始めた。


05/28 design

designは日本語では設計すること、と訳されている。
しかし、日本語で「デザイナー」というのは設計する人=建築家ではないらしい。
私は、designと設計は同義語だと思っている。
だからこそ、事務所名にdesignを入れている。
デザイナーは恐らく、建築家はデザインが出来ないと思っているかもしれない。

このブログで、以前「デザイナー」という表題で書いた文章があるが
それは、建築家と読み換えてもらった方が良い。
その時は、デザイナー=建築家という図式に何の疑いもなかった。
しかし、デザインは出来るが、建築は創れない人種が存在する日本の状況は何なのだろう。
そんな人間を否定するつもりはないが、私とのスタンスの違いが、こんなに遠い存在なのかというのを実感してしまった。


05/23 死

2050年、人間は「不死身」に=脳の中身をPC保存

こんな事が本当に実現したら、人間の存在が軽視されているようで、恐怖を感じる。
テクノロジーとして、SF映画の世界を実現したと評価を受けるかもしれない。
しかし、そこで語られている「人間にとって死はもはや大きな問題ではなくなる」という一文が
胸に突き刺さるようだ。
不老不死は、人間の夢かもしれないが、実現してはいけない夢のような気がする。
自分が死なないとわかった時点で、人生を今までのように生きていけるのだろうか。
確かに、ある不幸が襲って大切な人をなくした直後にこの事を知れば、どんなにうれしいだろう。
でも、それは命の重さがなくなるようで、怖い。

脳の情報も感情も、電気信号には違いないかもしれない。
しかし、人間は人間であってそれ以上でもそれ以下でも無い。
もしも、人間が生と死を自ら選択する事が可能だとすると、その善悪を誰が判断するというのか。
それが、貧富の差で決まると言うならば、まさに「銀河鉄道999」に描かれる、機械人間社会の苦悩と挫折が実現されるだろう。


05/23 視点

「半島を出よ」読みきりました。
なんてゆうか、小説にこれほど気持ちが高ぶる経験を初めてした。
あまり、経験した事の無い感動を味わった。
なにか、誰も知らない場所で、出会った名建築を見つけたような。
事象の優劣は、それに精通すればするほど、身にしみて理解できるようになるが、そんな感覚に近い感動だ。

そして、まず感じたのは、歴史的な事実にどれほどの真実が含まれているのかという事だ。
そこには、同時代で生きる何万人がいて、その事象に本当に触れている人たちはほんの一握りで。
そのような出来事ひとつひとつが歴史であって。
以前に、ある中国人留学生が最近の反日活動が活発になった事でTV番組に出演して発言していたとき
「歴史は一つで、それ以外にあり得ない」と自身満々に語っていた。
確かに、それも一つの真実だ。過去に起こった全ての出来事は一つしか無い。
同じ時間軸の中で二つの事が同時に起こる事は無い。
でも、それを見つめる視点はどうなのか。直接目の前で見た人と、話を聞いた人が同じ感情をもつことは厳密には難しい。
同じ国でも多数派と少数派が存在して、それぞれに都合のいい解釈をするのではないだろうか。
一つの事象を一つの視点で見ようとすればどこかに歪みが発生する。

中国では、ネット上の情報でも、国家に監視され、必要があれば削除したりされるらしい。
しかし、反日がそうされないとすれば、それは国家も認めているという事なのか。
歴史も一種の情報であり、それを操作する事もありえるということではないだろうか。

この小説には、視点をきめ細やかになぞっている。
ここに描かれる日本は、最低なものだが、このようになる兆候が端々に感じられるのも事実である。
著者の村上氏は、こうならないようにという思いを込めて書いたと言っていたが、ほっとけば似たような事になる。
そこを見抜いている村上氏の視点も歴史の一つの事実である。


05/21 批評

最近は、一般誌も建築をテーマにしたものがあるくらいなので
建築に対する論評が普通に載るようになったようだ。
それ自体は建築界に携わる者として喜ばしいことである。
しかし、極稀に、非常に嫌悪感のある論評を目にする事がある。
その多くは、インターネット上にあるのだが・・・
例えばブログはもともと日記サイトなどと呼ばれているので、何でも書いていいように思える。
しかし、その日記は誰もが見る、見られる可能性があるという所が従来の日記と根本的に違うのは
言うまでもない。
ましてや、個人運営のサイトであってもそれは同様である。
そこでの文章が例えばどこかの建築を見に行ったらこんなものだった。などの感想を率直に書く事は何ら問題が無いと思う。
しかし、それが批評めいてくるととたんに嫌悪感を帯びてくる。
その一例として、私ならばこんな設計はしない。というような根拠の無い批判である。
しかも、その代替えがどうなるか詳細に触れられなかったりすると最悪だ。

それが、建築の設計をしている者の言葉であれば、わからないでもない。
それは、創る側の視点として建築を批評しようとしているからだ。
建築をデザインするという事は、本来非常に個人的なもので、デザインするという事は個人の意志に基づいて完結していかなければ、良いモノになり得ない。
一つのアイディアを共有は出来ても、融合させる事は難しい。組織事務所のデザインが個人事務所のデザインよりも一般的なのはそのためだ。
だから、創る者は常にそのオリジナリティを意識する。だからこそ、他人の創ったモノ、歴史を含めて全ての建築がその対象である。

そこで、なぜこの嫌悪感を帯びるのかを考える。
それは、その建築家が構築した建築以外のデザインを用いて、何らかのデザインを批評者が行ったとして、果たして今実在する建築よりも優れたものを構築する事が可能なのかという事だ。
実作をみて、そう感じるならば、実在しているという時点で、既にそのデザインは一歩先を歩いている。その批評者の頭の中にしか、そのデザインは存在しないのだから、それがこの世に生まれる事が出来るのか否かもわからない。その存在自体が危ういものだ。
それを目の前で比較する事は不可能である。
そして、そのような行為を建築の設計をしていない人間が語ること自体間違っている。
ただし、これはあくまで創る側の視点の上でという条件が前提である。
本来、そんな視点で建築を観る事はしないであろう。一般的には建築を使う側として観るのが普通だ。
だから、その視点に基づく批評や批判は聞いていても、納得が出来るのだ。
少なくとも否定的に感じた根拠は、明確にすべきだ。

私自身も批評や批判を書く事があるだろう。
それが、もしも建築家としての批評であるならば、自分の能力をわきまえないといけない。
それを凌駕する建築になり得る場合でないと批判などはできない。
批判をする前に、それを構築する事だ。
建築家は、つくった建築が全てであり、それ以上でもそれ以下でもない。とは内藤廣さんの言葉だが、それが真実だろう。


05/20 自然素材

日本の木造建築は世界に誇れる建築である。
言葉では誰しも納得のいくフレーズである。
しかし、どのくらいの日本人がこの事に自覚的であるか。
総ヒノキの家なんて見た事無いよ。などという人はこの日本ではいないと思うが
一般的にはそうではないらしい。
そのような人はきっと、修学旅行で奈良にも京都にも行った事が無く、近所に神社もお寺もお堂も無く、そんな建築とは無縁の生活をしているのだろう。

これ全部秋田杉で出来た家です。環境に配慮してます。

環境との共生などといいながら、自然素材の家がもてはやされている。
自然や共生などともっともらしい言葉で飾っているが、実際に出来たモノがどれほどのモノなのだろう。
たしかに、シックハウスや欠陥住宅は問題だ。
いやむしろ問題外である。
それらは建築物であるが建築ではない。人が普通に使用できない構築物が建築であるはずが無い。
建築家たちが知恵を絞って戦っているところと、全く別な所で話をしているかのようだ。

室内環境に配慮するために壁に炭を入れてあるんです。

ダカラドーシタ!

空間性に何らかの意思や意図がそこに存在するのか?
そこには単に場当たり的な発想しか見えてこない。

環境との共存共生は建築の新たなテーマとして重要だが、それがデザインと切り離されて議論されても先は見えている。新たな思想は新たなデザインによって具現化されなければ、スタンダードにはなり得ない。
international-styleがこれだけ認められたのは、そこに未来が輝いていたからだ。

一般的な建築に対する認識はこんなものなのだろうか。
日本は本当に先進国なのか。

地方都市に未来はあるのか。


05/19 ジゾクリョク

仲間由紀恵の過酷な労働環境の現場

クリエイティブな仕事は労働とは言わない。明らかに事務所に対する皮肉だ。
女優とタレントの違いは、この辺だと思うが、芝居をするという事は一つの映像をクリエイトする事なのだから、演技者にもその能力が必要だ。
その現場が労働現場と化しているのなら、即刻中止するべきだ。
その英断を出来ない事務所関係者は、どこかの鉄道会社と同じではないか。
犠牲者の多少しか差異はない。

でも、仲間さんの立場から見ると、この状況の中でも素晴らしい作品を創れるとすれば
きっと女優として成長できる事なのかもしれない。

ひたむきな人は、美しい。

がんばれ仲間!さん。


05/19 変わらないもの

ファン離れが加速するキムタクの無自覚

キムタクに限らずタレントという職業は常に大衆に飽きられるものであろう。
モーニング娘。がここまで飽きられなかったのは、飽きられる事に自覚的だったという事か。

コンクリート打放しと言えば、安藤忠雄さんと言う連想に異議のある人は少ないであろう。
”うちっぱなし”ではなくあくまで”うちはなし”です。うってはなつ!明らかに語感が違うと思うのは
私だけでしょうか。
それはともかく、安藤氏はコンクリートの開発者でもなく、初めて打放しを実現した人でもない。
でも、コンクリートから安藤さんのイメージを払拭する事は出来ない。どんなに美しく打設しても
どこか安藤さんのものとは違うように見える。
その理由を饒舌に論理的に語れるほどの理論を持ち合わせていないが、一つ言える事は、安藤さんは今も創り続けているという事だ。今こうしているときにも安藤建築は生産され続けている。
恐らく、安藤さんは、死ぬまであのコンクリートを創り続けるつもりだろう。
最近、鉄板の外壁を採用したプロジェクトを発表したが、そこでもコンクリートがなくなった訳ではない。単に減っているだけだ。
事務所を開設当初は、木造の住宅などを手掛けていたが、ある時期からコンクリートに執着する。
そして、世界的な建築家として認められた現在も、同じ素材を使って建築を創るという事は並大抵ではない。
しかし、素材は同じでも空間構成や素材感は明らかに違っている。それは進化と言える場合もあるし、過去の作品の方が優れている場合もある。それでも、創る事をやめる事無く、持続している。

それに対して、隈研吾氏は恐らく対極の創り方を考えているに違いない。
実際、ご自身がそう語っているのだが。それでも、そう言いながら、そのまま実現する事が出来るのも、安藤さんと同じ質のジゾクリョクを持っている人なのだろう。

そこに、常にカワラナイモノが存在する。人間の体は、何百年も前からさほど変わりない。
しかし、百年前の人間と現代の人間が同じではないのは明らかだ。
建築も同じものが出来る訳が無い。

建築は常に変わる必要はない。しかし、変わらなければ創る意味がないし、建築にはなり得ない。


05/18 デザイン

デザイナーはデザインしていなければ生きていけない。
たとえ、それが机上の徒労に終わってしまっても。
それが最初から徒労に終わる事がわかっていても出来るであろうか。
それが出来なければ、デザイナーとして生きていく事をやめなければならない。

仕事は生きるためにするものだ。
それが、生活を支えるほどのものでないとしても。
そうでなければ、それは仕事ではなく労働である。
仕事が労働に変わった時、そのデザイナーも輝きを失う。
心の輝きを・・・。


05/17 記憶

1ヵ月半無言の身元不明の青年、突然ピアノを弾きだす=英国

まるで、映画のような出来事。
自分がもしも、記憶がなくなってしまったら何が残るのだろうか。
この人の記憶の深い所で、消し去れずに残っていたものがピアノだったなら
私の消し去れない記憶はなんなのだろう。
それとも、何も残らないのか・・・


05/16 裁判

DVの最新事情−払われない慰謝料

裁判所は、DVだけでなく、和解を勧める。
以前に建築に関する裁判に関わった事があるが、同様であった。
双方の主張の正当性を探るどころか、単にいくら積める?みたいな事を言われた。
私は、裁判は正当性を主張する所だと思っていたので、一生懸命に正当性を補完する資料を作っていた。

それは本来弁護士の仕事だと思っていたが、弁護士は、建築基準法は建築士の方が専門だからという理由で、基準法にいかに適合しているかを表現する様々な書類を作成した。
それを、何度かの法廷で主張したあと、結局、和解だ。
こんな裁判に何の意味があるのか。


05/16 北朝鮮

『半島を出よ』を読んでいる。
まだ、上巻の半分くらい。これ、すごく面白い。
普段、小説はあまり読まないのだが、ちょっと興味があって読んでみた。
読み物として面白いだけでなく、detailが絶妙だと思った。
設定が近未来だけに、リアリティがありすぎて恐くなるくらいだ。

こういうdetailの精緻さが、読者にある種の悦楽をもたらすのは建築に共通しているようだ。




05/12 価格

先日、久しぶりにリアルタイムで「建物探訪」を見た。
その住宅は、未来的な・・・という見出しだったので興味深く見ていたら
建築雑誌に掲載されていたものだった。
たまたま、雑誌で見た時も気になった住宅だったので、最後まで見入ってしまった。
そして、最後に工事費の公開

6300万で坪111万

これだけ聞くと、流石、結構お金かけてつくりましたねーって感じですが
私は、えっ!と目を疑いました。

とても坪111万のdetailではない。
それもそのはず、雑誌に公表されていたのは、総工費7700万で坪188万
180万以上かけているのを公表しているのはあまり見かけないので、この数字は記憶していた。
だから、このとき逆に自分の記憶を疑った。
あぁ、こんなもんだったっけ・・・

しかし、これは建築業界の悪しき慣習だ。
工事費6300万と7700万では、あまりに違いすぎる。
実際工事費というとき、何を指すのか非常に曖昧だ。
クライアントの立場から言えば、当然総工費であろう。
しかし、実際に巷にあふれている工事費や施工費はほとんどが「建築工事費」ではないか。
業界内では、工事費と言うと建築工事費を指すことが多い。
そこには電気工事や設備工事は含まれない。
ハウスメーカーで安さを売りにしている所は、ほとんどがこの手を使っているのでは。

以前、この番組で紹介された住宅が、計画中のものとほぼ同じ面積だったのだが
「RCで坪70万って言っていたのですが、うちのもっと安くできないのですか?」
と聞かれて、困惑したことがある。

価格というのは、ものの価値としての対価だと思う。
その価値を知らなければ、あるいはわからなければ数字を比較してもなんの意味もない。
ローコストというのは、同じ価値を少ないコストで、という事であるから
単に工事費が安くなる事ではない。

金がかかっているならそう表示すべきで、それを曖昧にすれば誤解されるだけだ。

番組に出ていた住宅も、坪111万ならある意味評価できるが・・・

かといってお金のない事が、創作意欲をそぐものではないのも事実。
多少の問題ではなく、質の問題ということだ。

ローコストでもへこたれない精神力を鍛えねば・・・。


05/10 体感−2


建築と対話をする。
自然と対話をする。
人間と対話をすることは容易い。共通言語を持っているから。
でも共通言語を持っていない他者と対話をするのは、容易ではない。

建築は動けない。それは自然も同じ。
だから、こちらが会いに行く。
会ってみなければ、どんな他者かわからない。
お見合い写真は、もう見飽きてしまった。

新たなる出会いを求めて。

九谷焼窯跡展示館

   
静かなファサード                       顔?

西田幾多郎記念哲学館


住吉の長屋がフラッシュバック。本家よりも太っている・・・


スタルクの椅子が壁面にとけ込む。
この純度に圧倒される。
コンクリートに転写されたレイヤーがこの建築のすべて。
全てを浄化するレイヤー。


格子のレイヤーが重なるごとに奥行きが増してゆく。




木造は純度が下がる。それをここまで引き上げるのは設計者の力量。


体感-1

先日、建築を体感してきた。
純粋に体感するのは、簡単なようで難しい。
建築は機能があるものだから、その機能が満たしているかどうかは、比較的簡単に判断できる。
しかし、建築と対話をするべく姿勢で感じようとすると、とても一日では判断できない。
そこが、建築の懐の深さであり、奥行きというものだ。
対話する感覚は、その場所に身をおいた者にしか得られないものだろう。
そして、それを磨く事は建築家としてだけでなく、人間としての感受性をみがくことだ。
そこに、芸術の本質があると思う。

なんでもないことが、なんでもなく見える瞬間を大切に。

新たな発見に心ときめかせつつ、感じた事。

TARNSTATION大関


小さな駅で舞っている日常を包む鉄板。
周囲はごくありふれた住宅街に挿入された異質さが心地よい。

HALFTECTURE福井


ありふれた水平線と垂直線に抗うように曲がってしまった。あるいは曲げられてしまったよう。
曲線の美意識を感じる。

福井県立図書館・文書館


自然と人工物の対比は、建築の永遠のテーマ。


色彩の美しさと素材感が際立っている。
自然に負けない自然さ。


04/28 価値

先日、ある人との会話中その人が言った。

「このへんで、ブランドものもってたって誰もわかりゃしないよ」

建築について話をしていた時の事だったので、ブランドもの=建築家の設計に聞こえた。
だから、「このへんには、建築家に設計頼むヤツなんかいないよ」と聞こえた。

こんな田舎で建築のことがわかるやつなんか、ほとんどいないんだよ。
そこまでは言ってないが、そう言っているように聞こえた。

今日、突然エレベーターの営業マンが私の事務所へ来て

「あのー、エレベーター使いませんか?」

ちなみに、私の事務所は私が設計した住宅の地下を借りている。

ここには事務所の看板らしい看板はないので、不思議そうな顔をしていると
「近くを歩いてたら、設計事務所さんの建物かなーと思って」

前述の人の話は、とても偉いお方の言葉だったので、反論できなかったのだけれども
例えば、ブランドもののバックを持っているのは、周りの人間にブランド品を持っている事に
気づいてほしいのだろうか。
確かに、そんな理由でブランド品を求める人もいるだろう。それが、ブランドというものだから。
では、そのステータスはどうやって築かれたかというと、いいものだという単純な理由だと思う。
ブランド品はいいものなのではなく、いいものがブランド化したということだ。

そこで、建築に戻ると、建築家の設計とそうでない設計。
あるいは、能力のある人とそうでない人の設計。
同じ設計者という立場の人が、同じような技術を使って設計している。

私の設計は、他の私以外の設計者とどう違うのか。
その違いは周囲の人には伝わらないのか。
それが、わからなかったから反論できなかったのかな、とあとになって思った。

少なくとも、今日、はじめてあった、あのエレベーター屋さんには、伝わった(と思う)。
全てではないにしろ、何か感じたから突然やって来たのだろう。
私には、それはとても意味のある事に思えた。

どう違うとか、何が違うとか、そんなことはどうでもよくて、本能がイイナと
感じてくれればいい。

人の価値観は、情報に左右されやすいものだけれども、全く知識のない、先入観のない状態で
ものを見たり判断したりするのは、現代の情報化社会の中では、非常に難しい。
でも、今、必要とされているのは、そういう素の心に響くものなのかなと思う。

この建築が、そういうものであると信じている。


GRAFT-MADE
先日、自宅の近くに気になるお店がオープンしていたので、立ち寄ってみました。
それが、思ったよりも良い店でびっくりしました。
須坂市にいる人は、是非立ち寄ってみると良いと思います。
オーナーのセレクトにセンスを感じました。

GRAFT-MADE
↑詳細はサイトにて

私も、小物を購入しました↓ 道路の形のガムテープです。横断歩道もあります。




04/18 ものの寿命

日本の建築、特に住宅は諸外国に比べて寿命が短いと言われている。私自身、そう感じることが多いことも事実である。最近では、リフォームブーム?と言わんばかりにTVや雑誌で匠?達が腕を振るっている。某TV番組の建築家に対する認識は少し歪んでいると思っているのだが、そんなことより、多くの人が現状の住まいに問題を抱えているのは、よくわかる。

では、その建築はなぜ延命できないかというと、ほとんどの場合、機能上に問題があるか、その用途に見合わなくなることであろう。ここで問題になるのは、どれくらい支障があるかという、「程度」の問題である。某TV番組に出てくるのは、その「程度」が常識的にも逸脱しているのをあえて選別しているように見える。
そんな事例を出さなくとも、もっと些細な不満は、たくさんあるだろうし、住んでいればいろんな事態が起こるであろう。つまり、住宅とはそういうものであることを前提にすれば、すべきことは必要最低限にするべきである。先に私の思う結論を述べると
「住宅の寿命を延ばすなら、最小限の機能と最大限の空間を確保すること」ではないか。

ハウスメーカーをみてみると、家族の個室と風呂、トイレ、リビングにキッチンがプランが違うがそれぞれにパッケージされていると思う。しかし、家族の形態というか構成は、非常に流動的で不確定な物であるのが通常である。それを、建築という非常にソリッドな物体でトレースしようというのだから、変化に追従できなくなるときがくるのは目に見えている。建築家の設計する住宅にワンルームいわゆる一室空間が多いのは、そのためである。住宅の寿命を延ばすためには、ゆとりが必要なのだ。ゆとりがあれば、いかようにでも改変できる。しかし、それは床面積だけの話ではない。
建築に機能を与えすぎないことも重要である。それが前述した「最低限の機能」の意である。
最近は、ホームシアターやサウナなど様々な機能を住宅に付随させることが増えている。それを、否定することはできない。そのような欲求は必要だと思う。しかし、ある程度、建築と切り離して考えることも必要だと思う。その機能を与えられた瞬間その空間は、その用途にしか使用されないというのは非常に窮屈だと思うのだ。
建築家の小島一浩氏の言葉を借りれば、真っ黒になる。(黒=機能と空間が一致している、白=機能が限定されていない)もちろん、トイレ、風呂などは黒い部屋の際たるものだが、我々はそれすらも、白く(=機能を限定させない)したいと願っている。いま活躍している建築家の多くは、独自の方法で、白くさせている。(注:間違っても色を白く塗ることではない)

私自身、設計段階ではいろいろ提案をするが、クライアント自身、黒い空間が当たり前の建築にしか触れたことがないので、創造がつかないらしい。まして、この黒い空間が好きな人もいるので一概に良いことなのか再考の必要性があるが、少なくとも私は、建築に仲間はずれのような空間が存在するのは、喜ばしいものではないように思う。

海外には、異種用途の改築が非常に多い。それは、非常に魅力的な空間を創り出している。そのようなことが可能なのは、躯体が丈夫にできているだけでは決してない。用途に対して、ある種のおおらかさがそれぞれの建築にあるように思える。
ヨーロッパのある都市で、日本で言う秋葉原のような存在のショッピングモールを歩いたことがあるが、そこにはとても21世紀の必需品であるコンピューターが売られていることなどは、微塵も感じられない。そこは、古い鉄道の高架橋の下、いわゆるガード下にあるのだが、利用の仕方が日本とは雲泥の差である。神田には同じような形態のレンガとアーチの高架橋はいくつもあるにも関わらず、全く違う物に変換されている。つまり、要素の問題ではないのだ。どんなに良い要素があってもそれを再構築する技術とセンスがなければ、良い空間は生まれない。まさにそれは建築家の職能ではないか。

日本のやり方は、ある海外のある街が美しいとなれば、それをそのまま持ち込もうとする。しかし、それはテーマパークにしかなり得ない。テーマパーク自体を批判するつもりはないが、テーマパークを造るつもりがないのに出来てしまう、その状況が問題なのだ。

話にまとまりがないが、とにかく建築も人間も、長生きの方が幸せだと思う。
丹下さんは91歳、ジョンソンは98歳・・・



04/16 捨てること

ものを捨てるということは、捨てる必要があるものを=無駄なものを、以前にどこかから獲得してしまったがために、その行為が発生する。
現代の日本において、ものを出来るだけ持たないように生活することはとても困難である。引越しをすると、それが判明するのだが、半分くらいは生活の必需品とはいいがたい”もの”に囲まれて、生活している。住宅をデザインすることは、生活をデザインすることでもあるから、その問題は非常に深刻である。

私は、学生のころを含めると、6〜7回引越しをしている。そのたびに、持ち物を整理して捨てるのだが、そのたびに増えている。家族が増えると荷物が増えるのは当たり前だが、基本的に必要ないものはどんどん捨てる。時々捨てすぎるぐらいだが、最近はゴミの減量化も気になるので、気をつけている。
だから、一般的な人よりも少なめなのは確かだ。それでも、増えている。
一般的な家庭では、多分我が家の1.5倍くらいあるだろう。
では、それをどのように解決していくか。

このことについて、西沢大良氏が非常に興味深いエッセイを書いている。
初の作品集と、そのエッセイの続編がGAに掲載されているので、興味がある方は参照をお勧めする。

そこでは、”もの”はアクティビティーと対応していると述べられている。つまり、ものが増えれば、そのアクティビティーが増えるので、生活により豊かさも増える。一度触れてしまった豊かさは、手放すことが出来ないから、捨てることが出来なくなる。携帯電話は、便利であるが、その便利さと引き換えに、外出時の持ち物に携帯電話が増えるのと同じだろう。

我々が、モダニズムの延長線上で建築を扱うことは、現代においてはそれほど難しくはないが、その手法は本来アクティビティーが少ない20世紀初頭の頃に考えれれたことである。それを、いまだに援用することのほうに無理があるのではということだと思う。既存の計画学がどんどん解体されているのが現実であろう。
このエッセイによって、そのことをいまさらながらに気づかされてしまった。

建築をミニマルに表現することは、いまや一般的であるが、生活をミニマルにすることは難しい。だから、やたらと収納に拘ったりするのは、その矛盾に蓋をしているだけだ。現代の住宅のほとんどは、ミニマルな表現に多様な生活を組み込んでいる。
現代も20世紀初頭の巨匠たちの住宅が輝きを放っているのは、それが多少なりとも関係するのではないだろうか。

我々が、考えなければならないのは、その生活の多様さに対応する、あるいはかき消されないような、住宅とはなんなのかということだと思う。そのためにアクティビティーを制限することになっても、それもデザインのひとつだと言える。

理想を言えば、10年経っても、インテリアが絵になる住宅だろう。
生活が芸術に昇華する家・・・

いまだそれを模索中である。


04/15 建築家の設計

最近、建築家の設計する住宅がメディアに取り上げられるようになり、建築家に設計を依頼する人が増えているようだが、一般的は、建築家に設計を頼むとコストがかかると思われているらしい。
現代の建築界の一線で活躍している建築家ならともかく、まだそこまで著名ではない設計者であれば、必ずしもそうではない。
もちろん建築家であることを自負している設計者であれば、建築デザインを追求する姿勢は多かれ少なかれあるであろう。しかし、それはクライアントあっての研究であり、クライアントの納得できないデザインの追求は無意味でしかない。

つまり、良い建築を創りたい意思があれば迷わず建築家に設計を依頼するべきである。コストが十分にかけられる余裕があるなしにかかわらず。

重要なのは、コストよりも情熱だったりする。
設計者は全てのコストをコントロールできる立場にある。ある意味それが建築家がムダに金をかけていると思われる原因の一つかもしれない。しかし、そんなムダをあえてクライアントに要求する建築家がどれほどいるだろうか。コストバランスも重要なデザインの要素だし、そのテクニックこそが、物創りとしての技量の差であり個性でもある。

デザインすることは、常にコストとの戦いでもある。常にローコストで建築したいのは誰しも思うことだろう。それは我々も同じである。しかし、設計者の立場で言えば、デザインが優れていなければ、どんなにローコストでも意味がない。建築的に意味のある表現がなければ、我々の存在価値がなくなってしまう。

どんな建築も設計なくしては、建てられない。建築技術は、例えば住宅に限っていえば、セルフビルドが存在するぐらいだから、いわゆるローテクである。
しかし、だからこそ設計する技術がなければそれは、建築ではなく単なる建物でしかない。ここで言う建築とは、アートに昇華する可能性のある物を言う。
その「建築」を建てるのは設計する技術があって初めて成立する。
建築は昔から、芸術の最高峰として考えられている。しかし、全ての建築がアートに昇華できるわけではなく、そんな建築はごく一部である。
しかし、様々な建築がそんな気持ちで建てられているとすれば、自ずとその町並みはさわやかに美しくなっていくのではないだろうか。

私は、いつもそんな気持ちで設計している。


04/12 清家先生

お亡くなりになりになったそうです。
清家さんの家相についての本を読み直そうと思っていた矢先でした。

初期の住宅作品が好きでした。

心よりご冥福をお祈りいたします。


04/11 刺激

デザインされているものの中で、建築はタイムスパンがすごく長くて、ほかの芸術よりも五感に対する刺激が以外に少ないものだと思う。空間の差異や、空気の違いを感じ取るには、一朝一夕に身につくことが難しいのは、この差異が微細だからだと思う。しかし、その微細なものが実は、大きな違いでそれを感じられた時に、すばらしい感動がある。そんな感じなので、当然、刺激も少ない。例えば、照明を使ってデザインする照明デザイナーは、光を操作してデザインするために、視覚的な刺激が非常に強い。そのため、良いものと悪いものとの差が、素人的にもわかりやすいのではないだろうか。

そういう意味で、建築の善し悪しを理解するのは、ある程度の教養が必要である。最近のクライアントは、よく勉強しているので、建築の知識も豊富だが、そんなクライアントが一人でも増えれば、私の仕事も増えるかな?と思う今日この頃・・・

同時に、私の教養も引き上げなければならないのを忘れてはいけない。
日々、脳の活性化が必要だ。


04/09 住宅

マンション業界は、今年いくつもの高層マンションが竣工を迎えるそうで、供給過剰な状態に陥るらしい。それで、新たな業種としてマンションの空室を買い取ってそれを自社で売り込むという、会社があるらしい。分譲のマンション価格は、下落する一方だが、賃貸物件の家賃は横ばいで推移しているので、同じ地区で賃貸の家賃と分譲マンションのローンの支払いが同額ぐらいになるということが、この業種を支えているらしい。その社長の話では、500戸売り出して450戸売れ残りというマンションもあるそうだ。

しかし、そういったマンションが果たしてこの先、有効なストックになるのか疑問である。
マンションは、集合住宅というビルディングタイプに属するが、本来集合住宅とは、単に住宅がたくさんある建築ということではなかったと思う。住宅が集まることで、新たなアクティビティを何らかの形で提案していけるところに集合する意味があるのではないか。東雲キャナルコートはその好例だと思うが、そのような建築でない限り、ストックになりえないような気がする。

街のいたるところで建設されているマンションのほとんどは、画一的なプランと決まりきった仕上げと似たような外観で、街のランドマークになっている。少し、気遣いがあるところは、パッケージを外国の建築家あるいは、国内の一線で活躍jしている建築家にお願いするぐらいだろうか。青山のも、そうだとは言いたくはないが、多少なりともあるらしい。森ビルだし。

以前に、住宅コンペの審査会で、小学校時代の友人に偶然出会ったことが会ったのだが、彼は、「住宅より集合住宅のほうに興味がある。」と語っていた。そのときに、非常に違和感があった。興味のない住宅を集合させてそれが、面白いものになるのか。

以前に、コルビュジエのユニテに泊ったことがあるのだが、そこには、大事に使用され、いまだにその輝きを放ち続けていた。サヴォア邸のように、オブジェとして保存されているのではなく、建築を愛する人の手によって生きている、建築の姿は感動的であった。

そんな、建築がひとつでも日本に増えると良いと思う。


04/08 強度

デザインとは、形だけの問題ではないと思っているのだけれど、本来個人的なものだと思うし、少しの想像力で誰でもできるものだと思う。しかし、それが一般的に広く認知され、人の心を動かすものとなるととたんに難しいものとなる。
家具のようなものから、住宅、オフィスビル、都市計画などすべてデザインされうるものであるが、大きくなればなるほど、そのデザインの強度がより求められるように思う。逆にいうと小さいものほど、主観的になっていくとも言える。主観的になればなるほど個性は出しやすい。その個性が、大きなものに適用してもある程度通用する個性を確立したい。

そこにデザインの価値が問われる。


04/07  9.11

最初は、自分なりにデザイン論を書こうなんて大げさな気持ちでブログを始めたが、読み返してみると、単なる日記か独り言のように思えてきた。まだまだ修行が足りない・・・・。まあ、日々の日常の中から、書く事でデザインとリンクさせるという意識が重要である!と自分に言い聞かせてマス。 先日、アメリカで9.11の報告書が発表されたそうだ。
あれから、ずいぶん時間が経ったような気がするが、今でもあのツインタワーは、均質空間の象徴だろう。実際に自分の目で確認できなかったのが心残りだが。
しかし、それにNOを突きつけられたのだから、当時の気持ちとしては尋常ではない。ミースがこの事件を知ったらなんと言うのだろう。建築的にWTCやシーグラムのような建築空間は、現代において一つの頂点に達しつつあると思う。今や、日本のゼネコンであればどこでもミースの有名な計画である「ガラスの摩天楼」に匹敵する建築をつくることが出来るであろう。その先に何があるのか。多くの建築家や一般の人たちも気づき始めているのではないか。
日本の代表とも言える、伊東さんだって、もはやガラスの建築から距離を置いているようだ。しかし、ガラス自体から遠くなっているのではないようなんだけれども・・・

それはさておき、あのタワーが短時間で崩壊したのは、当初からの見解でほぼ間違いないらしい。詳しくは説明していなかったので、他のソースに期待するとして、注目されるのは、避難時のスピードが取りざたされていた。推測であろうが、ワンフロア降りるのに、約48秒かかったそうだ。それでは、あの高層ビルを地上まで降りる事は不可能である。
今後の課題は、避難の訓練や建築的にそれをサポートする必要があるとの事。これは、どんどん高層化していく集合住宅にも考えられる事だろう。

六本木ヒルズに飛行機突っ込んだら?

高層化は、人類の夢でもある。バブル期には、1000mのビルなんかをスーパーゼネコンがこぞって計画していたのを思い出す。

今度は、地下に伸ばそうか。



04/04 結露

季節も春になり、長野も暖かくなってきたので、最近は気にならなくなってきた所で今年の冬を振り返りながら、結露の事を考えてみた。
長野は、例年になく雪が多かったそうで、久しぶりに(以前に3年ほど住んだ事がある)信州の冬を経験する身にとってはつらい物になった。引渡しは、年末だったのだが、引き渡したとたんにドカッと雪が降り始めた。正月は毎日雪が降り続けていたので、さすがにうんざり。実は、私は北国生まれなのだが、雪は嫌いなのだ。もともと寒いのが苦手だ。

私事はさておき、竣工した建築にとっては、引渡し直後に、厳しい試運転が始まったようなものだ。この住宅は、南側全面ガラスで、それも単板ガラスである。一般的にはカーテンウォールと呼ばれる形式である。コストの問題もあり、単板であるのだが、私自身非常に迷っていた所でもあった。コストをかけてでもペアガラスにして断熱性能をあげるべきか否か。
ちなみに、カーテンウォールの担当者曰く「絶対結露ひどいですよ」、施工業者曰く「これ内側結露が流れるね」と言われ・・・しかし、カーテンウォールにペアガラスというのはあまりにヘビーデューティーな気がして、それだったら壁でしょ!って感じだった。決めては、クライアントの「多少結露したっていいんじゃないですか?」だった。それなら・・・という事で踏み切ったわけだが、なにも対策がなければ、当然アドバイスのようになる可能性がある。そこで、ペリメータを暖房する方式をとった。
この住宅には、元々輻射熱暖房をいれていたので、それを延長して稼働している間は、部屋温度に関係なく暖房する方式をとっている。これが、後に問題になるが・・・。

ふたを開けてみれば、結露はゼロ!とまではいかないが、ほとんど発生しない。クライアント自身も驚いていた。「なぜしないんだろう」と首を傾げていた。実際枠がスチールなので、そこが冷やされ、枠周りが若干曇る程度なのだ。曇りも結露の一種なので、無いとは言えないが、一般的な認識だと「無い」といっても良いレベルだろう。では、なぜしないかというと、輻射熱の暖房がかなり有効なのがわかった。当初、発熱ガラスを使おうかという時期もあったのだが、コストの点で問題があった。そこで、ガラス自体を暖めるという視点でも有効であるだろうと考えていた。
ただし、部屋の湿度の関係があり、条件が変われば違ってくるが、現状のこの住宅では全く問題ない。
デザインは、意匠の問題であるが、熱環境を含めてデザインする事が建築においては非常に重要である。 しかし、この事例も実は、大正解ではない。

この輻射熱暖房機は深夜電力を蓄熱して使用している。という事は、一日に使える熱量は決まっている。ペリメータは、常時熱を放熱しているので、そこでは熱をロスする。まして、断熱性能の低いガラスなのでなおさらである。つまり、そこでバランスを調整してやらないと、深夜になって、熱量が足りなくなるという事態が起こってしまう。これが、実際起こってしまった。吹き抜けや、一室空間が大きいにで熱量的に余裕がないため、少しのロスも気になってしまう。さらに、例年になく寒かったので、余計にそう感じられたようだ。
この点は、改良事案として今後の課題であろう。

現在の空調は、読んで字のごとく熱を伝える素材として空気を用いている。空気は扱いやすいかわりに、省エネルギーという観点では効率が悪い。その点では、輻射方式は優れている部分があり、室内環境や音の問題などメリットが大きいので、次世代の主流になると思われる。設置の費用も他の暖房機に比べると比較的安価なようだ。

最近、注目されているようだが、さらに普及してほしい設備の一つである。


03/29 伝統

最近、社寺建築に関わる機会があり、いろいろと、様式を学び直している。我々のような、現代建築家としては、かつての帝国様式のような縛りを与えられると、拒絶反応が起こってしまうが、様々な理由によりこの様式を受け入れなければならない状況になった。さて、いざ受け入れると言ったものの、当初手がかりが掴めず途方に暮れていた。とりあえず、実物や写真を片っ端から見ることにした。そうやって、漠然と眺めていると、日本建築の屋根は美しいとあらためて感じていた。
空間の存在だけを対象にするならば、現代の建築と古典的な日本建築は、どちらが優れていると簡単に言う事は出来ない。明らかに、古典建築が優れていると思える瞬間が多々あるからだ。だからといって、それを、トレースしても意味がない。現代には現代の解答がある。
それは、優劣を問うのではなく、解き方の問題だと思う。材料の問題もしかりである。かつては、木材しか選択肢がなかったし、当時はそれ以外の材料を使うなどとは思いもしないことだろう。
しかし、現代にはその選択肢がある。選択肢があるのにもかかわらず木を選択するには、やはりそこにメッセージが託される事になるだろう。

設計を依頼されたとき、イメージしたのは、やはり現代の手法で社寺建築を解く事である。しかし、それは現代の建築家にはある意味一番簡単で安易な手法かもしれない。
日本において、仏教は非常に歴史のある宗教であるし、伝統という意味では現代建築の比ではない。それを、現代建築で解くのは危ういだけにダイナミズムがあり非常に魅力的である。安藤氏の「本福寺水御堂」はその好例だろう。私はそうではない手法をとった。というか、とらされたというのが本当の所だ。しかし、現代の宮大工たちが現在も建築している社寺建築が優れているかと言えば、必ずしもそうではないと思えてきた。
これは、設計を始めてみて感じた事だが、ある意味伝統建築は非常に柔軟なシステムで出来ている。細部の決定は、ほとんど設計者に委ねられる。ただし、従来は設計者という存在がなかったために、設計手法と呼べる物はほとんどなく、大工における「墨の書き方」として残っている。それは、いかに制作するかに重点が置かれているので、設計手法と呼べるほどのものではないようだ。

今、一番気になってきたのが、軒の曲線である。これは、現代建築にはない、繊細なものだと思う。しかも、時代によって、それは微妙に変化していくのがおもしろい。時代が近づくにつれて、良くなっているとも言えるが、私自身は、鎌倉時代や室町時代ぐらいの反り具合の方がよく見える。現代の基準がどの辺にあるのかは、よくわからないが、そういう細かなラインの違いに個性が出せるかもしれない事に気がついた。たぶん、マニエリスムの時代は、こんな感じなのかなと思ってしまった。

現代における古典主義とはなんなのか。誰が見てもわかるようにという意味では、建築家がその個性を全面に出して設計する事の方がむしろ古典になるかもしれない。建築家が最上級の教養を求められるのは、かつて、その微妙な違いを判別できる目が必要で、そこから、自身のデザインを比較する事が必要だったからだと思う。
つまり、古典になればなるほど、教養がなければついていけなくなる。もちろん、現在の私にそれを十分満たすだけの教養はない。

少なくともこの設計が終わるまでには、最低限の事を身につけたいと思っている。


03/29 地震

最近の地震に対する恐怖心は、以前よりいっそう高まっているように感じられる。私自身、東京を離れて少しは安心出来るかなと思うが、実際はどこにいても日本の中にいる限りさけられないと思う。先日、放送が終わってしまったが、「救命救急24時」というドラマに克明に描かれて視聴率を上げているのも、一般的にも危機感があることの現れでもあるだろう。もちろん、ドラマ自体の完成度があってのことであるが。
ところで、神戸や、新潟の震災の際にその調査をしている医者の話では、地震の際に死亡した人の90%以上が、建物の倒壊によってなくなっているらしい。二次火災によって焼死する場合は少なく、焼かれた遺体があっても、ほとんどは、倒壊によって即死したあと、焼かれるいう状態だったらしい。そのことから考えても、建築の耐震化は、非常に重要であると訴えていた。
建築の設計者として人事ではない。以前に、雨漏りの話を記述したが、地震となると話は別である。建物の倒壊を防ぐのは、最重要課題である。
私は、基本的に構造設計家に構造設計をお願いするようにしているが、クライアントのなかには「構造設計料」に対して割高感がある人もいる。さらに、建築家に払う「設計料」に対しても、同様なことを思う人もいる。日本のハウスメーカーを支える人は、そんな層の人たちだと思う。神戸の地震の時は、ハウスメーカーの住宅の多くが倒壊を免れたため、復興時に建てられた住宅のほとんどは、ハウスメーカーだったことは記憶に新しい。確かに、そこで建築家に頼むという発想は難しいかもしれない。一刻も早く仮設住宅から逃げ出したいとなればなおさらだ。しかし、一方で、かつての街並の面影が全くないほど様変わりする景観に対する嫌悪感を訴える人もいる。そんな、人たちは、やはり、建築家にお願いしてなんとか以前の街並の情緒を取り戻してほしいと願うだろう。
ただ、全体を見るとそんな建築は多くはないように思える。東京の街も戦争や地震でダメージを負っているが、そこに復興される街は、全体性や街並はあまり考慮されないように思える。それは、日本という国の特徴かもしれない。日本人にはヨーロッパのように街を創れないし、その逆もまた同じであろう。だから、日本で南仏プロバンス風とか、そんな建物を見ると非常に違和感を覚える。街といってもそれを構成しているのは、個々の建築なのだから、細部を移植しても、全体が拒絶反応を起こすだけだからだ。しかし、そこで日本には土地神話というのが根強く残っていて、自分の土地に何を建ててもいいでしょ、という考え方をする人もいる。確かに一理あるので、そんな建物でも平気で建てられてしまう。そうやって、日本の街並の多くが形成されている。

ある論文で日本の建築家は、施主の教育を怠っておりその結果がこの街並であるということを訴えていた。その通りである。やはり、この問題は、クライアントと建築家のモラルの問題であると思う。よく街並研究と称して海外を視察し、そこでとられている手法をそのまま、日本に持ち帰り展開するということがよくあるが、これも、上記のプロバンス風の家を建てることと同じだと思う。元々、日本は戦後そのような手法で、建築を持ち込み、かつての日本の建築家でも外国の様式を知っていて、それを設計できれば良いということもあったらしい。その後モダニズムが発生しインターナショナルな建築が台頭してくるにつれて、どこでも同じ論理の建築をつくれる事が現実的になった。そこで、外国のヴァナキュラーな建築を自国に持ち込みたいと思うのは自然の流れなのかもしれない。

住宅は素人でも建てられる。住まいであるから、住人が納得すればそれで良い。ダンボール住宅が存在する世の中だ。建築家に設計を依頼しなくとも、家は建つ。しかし、その建てられた建築には、創り手とクライアントのメッセージが必ず残る。例えば、そこに住んでいれば、「私の家はこんな家です」と周囲にさらしている。いい加減なメッセージは、いい加減な評価しか与えられない。洋服にこだわる人がぼろぼろの家に住むのはおかしいのと同じである。たまに、それをなんとも思わない人もいるが・・・。
この辺の感覚が前述の感覚に似ている気がする。メッセージを建築に吹き込む能力が建築家の力量だ。設計だけが建築を豊かにする唯一の方法である。これを軽視するのは、建築ではない。極端にいうと、ダンボール住宅となんら変わらない。

なんだか、地震の話と関係なくなってきている気がするが、街が壊れるときに、そのモラルまでも壊さないようにしたいものだ。

 

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