2005/05/21 批評
最近は、一般誌も建築をテーマにしたものがあるくらいなので
建築に対する論評が普通に載るようになったようだ。
それ自体は建築界に携わる者として喜ばしいことである。
しかし、極稀に、非常に嫌悪感のある論評を目にする事がある。
その多くは、インターネット上にあるのだが・・・
例えばブログはもともと日記サイトなどと呼ばれているので、何でも書いていいように思える。
しかし、その日記は誰もが見る、見られる可能性があるという所が従来の日記と根本的に違うのは
言うまでもない。
ましてや、個人運営のサイトであってもそれは同様である。
そこでの文章が例えばどこかの建築を見に行ったらこんなものだった。などの感想を率直に書く事は何ら問題が無いと思う。
しかし、それが批評めいてくるととたんに嫌悪感を帯びてくる。
その一例として、私ならばこんな設計はしない。というような根拠の無い批判である。
しかも、その代替えがどうなるか詳細に触れられなかったりすると最悪だ。
それが、建築の設計をしている者の言葉であれば、わからないでもない。
それは、創る側の視点として建築を批評しようとしているからだ。
建築をデザインするという事は、本来非常に個人的なもので、デザインするという事は個人の意志に基づいて完結していかなければ、良いモノになり得ない。
一つのアイディアを共有は出来ても、融合させる事は難しい。組織事務所のデザインが個人事務所のデザインよりも一般的なのはそのためだ。
だから、創る者は常にそのオリジナリティを意識する。だからこそ、他人の創ったモノ、歴史を含めて全ての建築がその対象である。
そこで、なぜこの嫌悪感を帯びるのかを考える。
それは、その建築家が構築した建築以外のデザインを用いて、何らかのデザインを批評者が行ったとして、果たして今実在する建築よりも優れたものを構築する事が可能なのかという事だ。
実作をみて、そう感じるならば、実在しているという時点で、既にそのデザインは一歩先を歩いている。その批評者の頭の中にしか、そのデザインは存在しないのだから、それがこの世に生まれる事が出来るのか否かもわからない。その存在自体が危ういものだ。
それを目の前で比較する事は不可能である。
そして、そのような行為を建築の設計をしていない人間が語ること自体間違っている。
ただし、これはあくまで創る側の視点の上でという条件が前提である。
本来、そんな視点で建築を観る事はしないであろう。一般的には建築を使う側として観るのが普通だ。
だから、その視点に基づく批評や批判は聞いていても、納得が出来るのだ。
少なくとも否定的に感じた根拠は、明確にすべきだ。
私自身も批評や批判を書く事があるだろう。
それが、もしも建築家としての批評であるならば、自分の能力をわきまえないといけない。
それを凌駕する建築になり得る場合でないと批判などはできない。
批判をする前に、それを構築する事だ。
建築家は、つくった建築が全てであり、それ以上でもそれ以下でもない。とは内藤廣さんの言葉だが、それが真実だろう。
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