2005/07/23 建築行脚 vol.2 onishi

建築行脚の記録-2
鬼石の多目的ホール 妹島和世氏の設計です。
これも、コンペによる作品です。コンペ案とはプランが変わっていますが、妹島氏特有の透明感でいっぱいの建築です。
ここでも気になる事が・・・。
写真を見てわかるでしょうか。なにやら腰の当たりに余計な線が一本通っています。
最初に見たときにものすごい違和感がありました。しかもその線はよく見るとちょっとぐにゃぐにゃ曲がっているので緊張感を著しく奪っています。
これも運営側の配慮なのでしょうが、衝突防止の目印のようです。
おそらくこれも、設計者には黙って取り付け(貼付け)られたのでしょう。
それが、必要であればキチンとデザインされるべきなのに・・・。
建築は視覚芸術でもあるので、視覚的な影響をものすごく繊細に扱います。
だから、サッシの見附寸法を削るために努力をしたり、線を少なくするために莫大なエネルギーを費やしたりするのです。
それを、緊張感の無いプロポーションを無視したテープでガラス面を仕切ってしまう、あの感覚は・・・。
もっと役場は使い方を指導すべきです。
妹島氏の建築はすでに世界に認知されているので、世界中からあの建築を見学に大勢来るでしょう。その事を運営側は認識があるのでしょうか。
確かに、小さな町のための施設でしかないかもしれないが、それが世界に発信しているものだと解っているのと、無視しているのでは、全く違うモノになってしまう。
そして、もしも外国人であれば日本はそういう国だと誤解(理解?)して帰国するでしょう。
以前にル・コルビュジエ設計のマルセイユにあるユニテを見に訪れた時の事。
そのロビーには、コルビュジエに関する資料が陳列してあったのに驚いた。
そこからは、建築家をたたえるオーラが満ちあふれていた。
そして、そこに住んでいる人たちがすごく生き生きしていて、建築がそれに応えるように瑞瑞しくて非常に感動した。
それは、建築に感動した部分も多分にあったのだが、それを本当に大切に愛している事が伝わってきたからのように思えてならない。
建築は人々に愛されなければ、ただの物質に成り下がる。
建築は自身で輝く事が出来ない月のようだ。
本当の意味での町の活性化は、その人々が生き生きしていないと達成できるものではない。
良い建築はそれを認める人々に愛されてこそ、良い建築でいられる。
そして、そういう人々を尊敬したいと思う所から、町は町としての価値を帯びていくのではないだろうか。
そう言う意味では、現代建築はその土地の感性を簡単に映し出してくれる。
それが、現代建築の価値でもあり、現代に生きる私たちのテーマでもあると思う。
豊かな国とは、そういう感性を持っている国であり集まりであると思う。
それは、決してお金で買えるものではない。
なんだか、運営側の批判ばかりになってしまったが、建築の中身の話。
ランドスケープと建築の境界線が非常に曖昧で当初のテーマである「屋内広場」に対する妹島さんの解答が非常に心地よかった。
プランもそうなのですが、微妙な起伏を使って、単純な平屋の建築を多彩にコントロールしているのには感動しました。
恐らくこのうねりは、かなりスタディされていると感じました。
周囲には、小さな住宅が沢山ありましたが、それをうまく取り込むように、かといって埋没しないようなおおらかさを全面に出しているようです。
どこかのサイトで、「ちゃっちくて、すぐぼろぼろになりそう」という意見がありましたが、私にはそうは見えませんでした。最近の妹島さんの建築はそういう技術的な問題を着実に克服しているように思います。
一般的に軽いモノは弱く重いモノは強く見える。だからこそ、建築家は視覚に非常にこだわる。しかし、心に感じるのは視覚的な事だけではないと思う。
伊東さんはアルミのストラクチャーを実現したが、それは軽く見える事と本当に軽い事の差異を知っているからだ。
だから、ある意味そのサイトの指摘は正しい。ただ、「ぼろぼろ」になりそうなのに建築として成立している所に緊張感が生まれる。
「ぼろぼろ」にならないように作る事は容易い。しかし、それが正しい事かどうかは怪しい。
だからこそ、そこに建築家が思考を巡らせる意味が生まれる。
妹島さんの作品である飯田市の資料館で、案内してくれたおじさんが
「この建築は、海外からも見に来るぐらいなんだよ」
と誇らしげに語ってくれたあの笑顔を思い出しました。
Copyright© 2000
TNdesign. All Rights Reserved