TNデザイン一級建築設計事務所

越後妻有アートトリエンナーレ2006 その2

自然と人工物のせめぎ合い。
しかし、このコールテン鋼自身も自然の状態であるとも言える。
お互いにお互いの自然をぶつけ合って、共有している事が素晴らしい。
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抽象化された風景。
自然は有機的な存在であるが故にその対比としての抽象がある。
人間の肉体は有機的だが、脳=思考は抽象的である。
だからこそ、有機物の中の無機物が人間の思考を象徴しているように私は思えるのである。
建築の抽象化は、人間の思考を追求すれば表れる現象だと思う。
住宅を抽象化するかしないかは、別問題かもしれないが
住宅が建築だとするのなら、住宅が抽象化されていくことは避けられない。
住宅が建築であり得ないのなら、それはもう住宅ではなくただの物質だ。
抽象化の先を見据える建築家がいる事は否定出来ないが、私はまだそこから抜け出せずにいるかも知れない。
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向かい合う風景を見る為だけに設置された塔。
建築が機能を要求されるのは日常的だが、美術作品に機能を与えることで
その意味を問うている。
現代の身の回りにある装置は全てにおいて多機能な存在であるが
それが本当に価値に繋がっているかと言えばそうでもない。
多機能なものは多機能な故に価値を見いだせずに捨てられる事もある。
その存在だけが唯一の機能であれば、それが自然の姿ではないのか。
人間の存在とはそういうもののように思える。
社会にとって有益で、どんなことも解決できる人間がいたのなら
それ以外の人間は軽視されるのだろう。
それが、社会の歪みとなっていずれ報復される。
現代社会の多機能化は人間の存在にも多機能を求めすぎていると思う。
僕が出来る事は、建築を創る事以外にない。
地球のエネルギーを消費して、ただひたすらに建築を創造することでしか
機能を表現していない。
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塚本さん設計のコテージ。
その日はどなたかが泊まられていて、非常に楽しげでした。
使用されているかいないかによって、その建築は発するエネルギーが全く違う。
人が住まなくなると、とたんに家が傷み始めるのはそのせいだ。
それは、人間のエネルギーに物質が呼応しているからだと僕は考える。
エネルギーは目には見えないので、写真には写らない。
いや、写っているのかもしれないが凡人の僕にはよく見えないのだろう。
だから、こうして目の前に立って五感を総動員して感じとっている。
言葉にできない何かを求めて。