TNデザイン一級建築設計事務所

作家性2010

 

Photo:Walt Disney Concert Hall by nickboos

以前も同じ視点で、エントリー
書いたのですが・・・。
5年も前の文章なので、リンクすることがちょっと恥ずかしい・・・。
最近、小説の盗作とか、詩の盗作とか、歌の盗作とか、そのアイディアの起源に対する問題が多い。
それは、明らかにインターネットの影響だと思われるが。
膨大な情報の中で、それが誰の発案かを探ることは、ある程度は出来るかもしれないが、厳密には不可能だ。
すべてをネット上のデータとして管理しているわけではないから。
ネットにばらまかれたものから、ヒントを得ることは悪いことではないと思う。
しかし、それはヒントでしかないという状況をいかに理解するかが重要だと思う。
建築はそういう意味では、デザインソースに対して、割とオープンな世界である。
苦労して決定したディテールを惜しげもなく情報公開しているのは、とても素晴らしいことだ。
でも、そういう情報を寄せ集めて建築をつくれば、良い建築が出来ると勘違いしてはいけない。
私の知っている人で、こういう人がいた。
「日建設計のディテール集がほしいんだよね。」
最初は、この人の話している意図が分からなかったが、どうやらそのディテールを寄せ集めれば良いと考えているということを理解した。
設計業界を知らない人のために、解説すると、日建設計は日本のトップクラスの組織設計事務所。
全てにおいて、個人事務所とは比較にならないほどの設計事務所。
住宅の設計なんかには手を出さず(小さすぎて手を出せない)、巨大なプロジェクトを手掛ける、設計界の巨人(ジャイアンツ?)のような存在。
これは、全くの思考停止状態と言えるだろう。
それで、建築を作ってしまうことになんの生産的な価値があるのだろうか。
仮にも設計料というフィーを獲得しているのなら、それに見合う価値が必要だと思う。
それを生み出す行為を否定してる。
つまり、それはネットでアイディアを拾っている詩人や小説家となんら変わらない。
社会的に罰を与えられることではないのかもしれないが、そういう人が建築家と呼ばれたり、高い報酬をもらえる現実は、歪んだ現実としか思えない。
社会には表と裏があるということは、生きていれば感じることであるし、そういう現実が全くない社会に魅力が必ずしもあるとも限らない。
しかし、自分が作家であることと、作家として見られることは別の問題で、作家でありたいのならば、オリジナリティーに忠実でありたいと思う。
そして、正直でありたいと思う。
昔は、建築雑誌をチェックして新たに紹介される現代建築をトレースしていた時期もあった。
でも、いつからかそれが苦痛になってきた。
それは、自分に良くも悪くも、蓄積ができてしまったからだと思う。
何も知らない、まっさらな時は何を見ても新鮮で、ときめいてしまう。
でも、いろいろな情報を取り入れているうちに、自分が何を求め、どうしたいかは自ずと生まれるものだ。
そういう状態で、情報のシャワーを浴びようとも、体の表面を伝わるだけで流れ落ちてしまうだけ。スポンジは一度水を吸ってしまうと、吐き出すしかないのだ。
フランク・ゲーリーはデザインをするときは、出来るだけデザインと関係ないことをしてしまうという。そして、出来るだけ他の作家の作品を見ないとも言っていた。
そういう苦しい気分だけは、私も感じることが出来るようになってしまった。
産みの苦しみというものは、そういうものなのだろう。
そういう苦しみを経たデザインが、必ずしも優れているわけではないし、他の作家と似ていることもあるかもしれない。
それでも、作家は作品を求め続けるものだし、そうでありたい。
後天的(先天的?)マゾ体質です・・・。