飛距離

僕の生まれは、北海道である。
北海道というと訪れたことがない人達は、”北の国から”のようなイメージを想像する人が多いようですが
実家の周りには、あんな大草原は全くなくて、むしろ田んぼすら珍しいような住宅街でバスや地下鉄で
30分も移動すればススキノに行けるくらいのところ。
そこそこ都会で僕がいた頃は150万都市で、今は200万人に手が届きそう。
少子化の時代にこれだけ人口があるのは立派です。
僕は地元の高校を卒業して上京したので、もう人生のほとんどは札幌以外の思い出しかない。
そして、とうとう両親もいなくなり、実家も処分することにした。
地元と言ってみたり、故郷と言ってみたり、様々な表現があるけれど、そういう郷愁的な思いを
今までずっと、なんとなく否定しながら生きてきた。

建築は土地に根ざして建たざるを得ないという宿命がある。
だからこそ、インターナショナルスタイルという潮流が生まれ、メディア的な建築手法が生まれた。
でもそこから歴史は進み、どんなにインターナショナルであろうとも、ヴァナキュラー(土着的)な装いからは逃れられない
ということに改めて突きつけられていると今は思う。
かつてのインターナショナルだと思われていた巨匠も、実はローカル・アーキテクトであったに過ぎないという人もいる。
現在の巨匠とも言えるプリツカー賞受賞者も、都市部で活動する方も多いが
様々なバックグラウンドの中で、ローカルな活動を評価されている人もいる。
それは、建築家の誰の言葉が失念してしまったが、「建築の飛距離」の問題。
その飛距離とは、アイディアの深度であり、凄みであり、価値である。
それが、どんなにローカルで局地的な問題であったとしても
普遍的な問題を同時に華麗に解決しているのならば、それは価値のあることである。

僕の現在は、長野県という地方で自分の建築の飛距離を伸ばすべく、ひたすら素振りを続けるような時間を過ごしている。
どんなに高額の契約金やらを提げて、注目を浴びようとも、実際に活躍しない限り認められないのはメジャーリーグだけではないだろう。
建築家は、自分の思う理想の建築を作るのが主たる命題であり、そこにクライアントの共感があって初めて実現する。
僕の夢とクライアントの夢が少なくとも融合されて、共通の夢を追い求められなければ
住宅の仕事は建築家の仕事にはなり得ないのだと僕は思う。
そういう仕事のやり方は、今の時代にそぐわないかもしれないし、第一にお互いの利益を考えるならば最も非効率だ。
手間を掛けずに、費用対効果の高い方法で、デジタルデバイスを駆使して、成果物を量産する。
それが資本主義社会での正義であり、理想だろう。
建築界の重鎮、磯崎新さんの言葉で、「傑作を作るコツは、数多くの駄作を作ること」というのがある。
あの磯崎さんでさえも狙って傑作を作るのは難しいということなのか・・・というのが僕の理解だが
少なくとも、僕は依頼があるたびに、傑作を作ろうと思って挑んでいるのは確かで
それを何度も挑戦することと、継続することができれば、あなたにも傑作が作れるよ
と言っているように、若い自分は思ったのだろうと思う。
ただ、たくさんの依頼があってという前提条件を全く無視していることに、後から気づいた・・・。
それでも、なんとか生きてはいる。

閑話休題。前述の不動産の手続きのために、何年かぶりにフェリーで北海道へ向かった。
子供が小さい頃は、建築行脚も兼ねて、東北の美術館をハシゴしたりして利用していた。
早朝に小樽に上陸して見たのは、本当に美しい朝焼け・・・
30年前にも通ったことがある国道を走っている時に何故か、中学生や高校生の頃の思いを映像ではない、感情だけが蘇った。
青春の只中に上京して北海道を離れた時点で、どの地域でも僕にとっては、フラットで・・・
逆説的に僕の特別な場所が、実はここであるということを証明してしまっていることに、今更気づいてしまった。
そしてそれが、「故郷」の存在ということであることに・・・。
ずっと否定してきた感情が、自分の中にもあることに、少し驚いたけれども。
現在そこにいる人も場所も、多くは失われたり、変化してしまっているが、僕のこの感情や思い出は、今でも鮮明で
むしろ美化されて心に残ってしまっている。
それは、とても個人的なものであるが、郷愁というのは、やはり建築だったり風景だったりするのだろうとも思う。
そこにずっと変わらない姿で残っていることが、どんな価値よりも正しいと思えることもある。
ただ、それはやはり単に存在が重要なのであって、価値ではない。
保存の問題は、その認識のズレが結構深刻な問題だと思う。
ある人にとって重要でも、ある人にとってはなんでもないような建築物。
古い街並みが根本的にいいのか悪いのかの議論がされずに、無条件に残すのはおかしいし
それが何か優れている点があるから残すという、意味付けがされないと価値は生まれないと思う。
だからこそ、新しく作るのならばこんな価値が(経済的な価値も含めて)産めるからという意味付けが必要だし
価値を認めてもらえなければ、作る意味がないとも思う。

飛距離は、建築が生まれた後でも伸びることもあるし、逆になくなることもある。
ある意味、全てをコントロールして設計するのは、とてつもなく難しいし、できた試しはない。
でも、純粋な建築は必ず生き残るということを信じることから始めなければ、先はない。
建築は人よりも長く生きて欲しいと思うのは、作り手だけじゃない筈。
産んだからには、飛距離を伸ばして、世界遺産くらいの価値を手に入れて欲しいと思うのは
人間の親でも、建築でも同じなんだよね・・・。